「過越の食事」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 26章14-25節 14 時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って 15 言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。 16 その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。 17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。 18 イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。 19 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。 20 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。 21 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。 22 弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。 23 イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。 24 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。 25 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。 /nはじめに  過越の食事とは、ユダヤ人にとっては民族の歴史を思い起こす記念の時として大切に守られていました。イスラエル民族の選民としての歩みは、まさに苦難の歴史でありました。その苦難の中で神様の救いの業があらわれたことを、今も生活の中で、親は子供達・孫達へと伝え続けています。ユダヤの三大祭りの一つである過越の祭りの由来については出エジプト記12章に記されていますが、当時エジプトで奴隷であったイスラエルの民を自由にする為に、神様はモーセを遣わしてエジプトの国に災いを下します。エジプト王はイスラエルの民に自由を与えることを頑なに拒み続けますが、十番目の災い・・それはすべての家の長子(長男)の命が奪われる災い・・がエジプト全土を襲った時、イスラエルの民はモーセの言葉に従い、小羊の血を取って家の入口の二本の柱と鴨居に塗ったことなどを通して、その災いが過ぎ越していったという出来事です。エジプト王はこの災いをきっかけに、ついにイスラエルの民を自由の身とさせたのです。 /n過越の食事  この大いなる救いの出来事を子子孫孫にまで伝えるべく、イスラエルの民は毎年、家長を中心に過越の食事を通して先祖の体験を追体験します。ニサンの月(太陽暦では3月から4月)の14日午後、神殿でほふられた小羊を家庭に持ち帰り、日没と共に家の中からすべてのパン種を処分し、祝福を祈り、ブドウ酒を飲み、手を洗い、祈り、苦菜にハロセス(果実とぶどう酒を混ぜて作ったクリーム状のもの・・祖先が奴隷として粘土をこねた苦痛の象徴)をつけ、祈りの後に食し、酵母の入っていない3枚重ねのパン(苦しみのパン)を取り、エジプトでの祖先の苦難を偲び、真ん中のパンの半分をしまい、小羊の肉を取り祈りをささげ、ブドウ酒を注ぎ、子供達が過越の祭りの由来を質問し、家長がテーブルにある苦菜や肉の説明をします。そしてブドウ酒を祝祷し飲み、手を洗い再び祝祷し詩篇113篇114篇を讃美します。次にハロセスを付けた苦菜をパンに添えて食べ、小羊の肉を食べ、パンの半分を取り出し食べます。ブドウ酒を注ぎ感謝して飲み、4度目の杯をあげ、詩篇115編から118篇を賛美して終ります(新聖書大辞典参照)。この伝統は、民族の歩みと信仰をその心にしっかり刻んでいきます。 /nイエス様と弟子達の過越の食事  イエス様は生活共同体である12弟子と共に、過越の食事の時を持ちました。イエス様にとって地上最後となるこの過越の食事は、弟子達の中から裏切り者が出たことを全員に伝える時となりました。 /n「あなたがたの内の一人がわたしを裏切ろうとしている。」  自分の全てを捨ててイエス様を信じ従ってきた弟子達の一人、そして、家族のように生活してきた仲間の一人から裏切り者が出る、とのイエス様の言葉に、一瞬、静寂と息のつまるような重苦しい空気が流れたことでしょう。その後、弟子達は自分ではないと主張すべく「主よ、まさか私のことではないでしょう」と口々に言い始めました。 /n「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が私を裏切る」  イエス様がユダの名前を口になさらなかったのは、ユダの陥った内的な危険が、すべてのものにも迫っていたからでありましょう。すでにユダはこの時、祭司長達にイエス様を引き渡す取り決めをしていました。 /n「だが、裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、・・よかった。」  イエス様は十字架の死の覚悟が出来ておられました。それが父なる神様の意志である以上、引き受けるのみでありました。しかしだからといって、裏切る者の罪は見逃されるわけではなく、神様の裁きを担わなくてはなりません。この時ユダが、自分のなした罪の告白と心からの悔い改めへと方向を変える決断をしたならば、必ずやイエス様から赦しの言葉を聞くことが出来たでしょう。しかし彼は引き返す最後のチャンスを捨てて、自分の選んだ道を突き進んでいきました。  ユダに見るごとく、神様に敵対する力は今もなお猛威をふるって私達を襲ってきます。その力は恐るべきものです。神様が与えて下さった自由な意志(信じる自由・従う自由)を正しく行使出来るように、日々、御言葉と祈りをもって歩みたいと願うものです(エフェソ書6:10-18を心に刻みましょう)。