「神の喜び、悪の試み」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書] 42章1-4節 1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。 2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。 3 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。 4 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。 /n[マルコによる福音書] 1章9-13節 9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 /nはじめに  今日の聖書は「イエスの受洗」と「荒野の誘惑」という有名な個所です。先週、佐藤牧師を通して聖餐(式)の起源が明かされましたが、今日の前半で洗礼の話をしますので、先週、今週でプロテスタント教会が守っている二つの聖礼典について学ぶことになります。何と恵み深い神様の計らいでしょう! /nガリラヤ  洗礼者ヨハネが民衆に悔い改めを勧め、洗礼を授け、自分は救世主の先導者に過ぎないと証ししていた頃、ガリラヤのナザレの町出身のイエス様がヨハネから洗礼を受けたと書かれています。ガリラヤは首都エルサレムより100キロほど離れた地方です。マルコ福音書では「エルサレム対ガリラヤ」との意図がみられます。エルサレムにはユダヤ教指導者が多く住み、宗教的・政治的中心地でありイエス様を十字架刑に処した町。一方、貧しい人・虐げられている人・本当の意味で救いを待ち望む人々が多くいるであろう地方都市ガリラヤは、イエス様が伝道活動の本拠地とされ、又、復活の後に現れるといわれた町です。自分達は神に選ばれ,律法も守り、汚れた人々を助けるなどもってのほか、自分だけは救いに与りたいと自分中心で自信満々のエルサレムの人々とは全く対照的に、イザヤ書42:2‐3にあるような救世主が、この土地でなら育まれたと想像できます。 /nイエス様の洗礼   モーセの死後、後継者としてカナンの地へイスラエルの民を率いるよう、神様から使命を受けたヨシュアは、上からは主の励ましと導きと御守り、下からはイスラエルの民の励ましと勇敢さと信仰の支え故に、ヨルダン川を渡り、その任を全う出来ました。洗礼は「水に浸る」というのが元々の意味です。イエス様の受洗は、主の選ばれた民をヨルダン川を渡って、約束の救いへと到達させたヨシュアの「喜ばしい知らせ」を連想できます。又、イエス様の受洗はイエス様を信じて歩む私達のよき先例でもあります。私達はイエス様と異なり罪に絡まれた存在です。私達は神様から離された罪ある世界で苦しんで生きていました。その過程は各々違いますが、御言葉に触れ、聖霊によって「洗礼を受けてイエス様を信じる生き方をしたい」と思うようになり、願うようになります。  私は洗礼を受ける前に牧師から「罪ある身が一度死んで、イエス様の十字架と復活にあずかり、新しく生まれ変わり救われる」と学びました。 /n心に適う=良しとする=喜びとなる  イエス様が水から上がられてすぐ天が裂け、霊がご自分に降ってくるのをご覧になり「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、神の声が聞こえたとあります。「心に適う」は原語では「良しとする」、もっと発展して「喜びとなる」です。イエス様は、イザヤ書の「主の僕」(42:1-9、49:1-9、50:4‐11、52:13-15)を思い起こし、その立場での責任と栄光と苦しみに思いを馳せられたかもしれません。神の霊を受け,神の子として宣言されたことは、大いなる喜びだったことでしょう。 /n「神の喜び、悪の試み」  サタンの誘惑でなく「悪の試み」と題したのは、イエス様を「神の子」の座から引きずり降ろそうとするサタンの意図を感じたからです。一番お伝えしたいのは、「神の喜び」の宣言があって、それから「悪の試み」にさらされるのであって、「悪の試み」を乗り越えた後の「神の喜び」ではないのです。それはイエス様のみならず信じる者すべてについていえます。まず「神様の選び」(恵み)があります。神様はご自分がお選びになった人に対して「良い。」と思って喜んで下さいます。その大前提に神様の私達への信頼があります。心の定まりにくい私達をも信頼しようとして下さる深い愛です。次に神様の対抗勢力として破壊的エネルギーを持っている悪霊たちが嫉妬に狂ってやってきます。私達は既に福音の喜びにあずかっています。御言葉を聞き、イエス様の歩みを知り、その勝利と栄光の恩恵に浴する恵みを受けています。  今週も、御言葉と祈りの中で何が悪の試みなのかを悟り、神に喜ばれる聖なるいけにえとして自分を献げられるようになりたいと願うものです。