「信仰によって知る」 倉松功先生(前東北学院院長)

/n[詩篇] 14:1-7 1 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。 2 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。 3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。 4 悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい/主を呼び求めることをしない者よ。 5 そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。 6 貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても/主は必ず、避けどころとなってくださる。 7 どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。 /n[ローマの信徒への手紙] 3章21-26節 21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 /nはじめに  前回(4月20日の礼拝説教)、ロマ書1章17節で「神の義とは『福音』である。『イエス・キリスト』である。」ということを学びました。本日の聖書の冒頭には「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」とあります。このことを簡単に申しますと、神の義すなわち福音であるイエス・キリストは、律法とは関係ないけれども、律法を通して(律法を媒介として)理解される、ということです。「神の義」が「正義」を示しているとすれば、律法は神の意志を表しており、それによって証しされるのは当然ですが、どのようにして「律法がキリストを証しする」のか、ということは簡単ではありません。と申しますのは、私達は律法によって必ずしもすぐに罪を告白するとか、キリストを求めるということにならないわけです。そういうことについて今朝は、パウロを通して教えられたいと思います。 /n律法は福音の証人・養育係・目標  21節には、律法は福音(キリスト)の証人となるということが書かれています。パウロは同じことを別の言葉で・・「律法は、私達をキリストのもとへ導く養育係」(ガラテヤ3:24)といっています。さらにもう一つ、パウロは大事なことを言っています・・「キリストは律法の目標であります。」(ロマ10:4)。目標は、「目的」「終わり」「完成」とも訳されます。 /n律法は罪の自覚のみ  どういうふうに律法は養育係、案内役になるかというと、まず第一に、律法はキリストに導く反面教師ということです。「なぜなら、律法を実行することによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(3:20)。律法は反面教師とまでいわなくても、普通には導かない。反対の方向に導くのです。律法は罪の自覚しか生じない。罪の自覚だけなら「証しする」のとは反対です。しかしこれは律法の重要な役割といえます。 /n律法とはどういうものか  モーセの十戒には、律法の全体がよく示されています。前半は「心をつくし、精神をつくし、力をつくして汝の神を愛せよ」=「主を畏れ、従いなさい」という戒めであり、後半の人間に関する戒めは、「汝の父母を敬え」(五戒)以外は、○○してはならないという最小限、最低限の誰もがしてはならないことが書いてあります。この戒めは、どの国民においても法律として犯せば犯罪になる(殺す・姦淫・盗む・偽証・むさぼり)倫理的、社会的な最小限してはならないことであり、最大限何をしなければならないかについては、神を崇め、愛し、神に従うこと、神に仕える。こういうことしか書いてありません。  主イエス・キリストは「自分を愛するように隣人を愛せよ」(レビ記19:18)とおっしゃいました。これが律法の大きな性格・特徴といっていいと思います。あとは一人一人の自由と責任です。これに委ねられている。このような宗教はないでしょう。それだけ聖書は、個人の自由と責任を大切にしている。といっていいでしょう。 /n良心  律法に何が書いてあるかは別として、私達の良心が律法を証しする、律法と同じことをする、ということが付け加わっています。これは日本人として大切なことです。日本には「律法」という言葉はないので、律法がわからない人でも「良心」ならわかります。パウロは「良心が律法を証しする」といっています・・「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ロマ書2:14-15)。律法は良心と同じことです。理性といっていいかもしれません。聖書の教えを持たない者でも、二つの大きな愛の戒め(神を崇め、愛し、神に従う/隣人を愛する)を、良心は知っているのです。たとえ律法をもたない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」 このように良心は、律法の命じる善悪は知っているし、してはならないことも知っています。 /n良心の問題点  ただし良心は一つのことだけ知っているわけではありません。善と悪についても、さまざまなことを知っている。その良心が属する集団、社会、国によって必ずしも同じとはいえないかもしれません。にもかかわらず、「良心」は誰でもが生まれながらにして持っている善悪の基準であるといえます。特に欧米では、良心には「共に知っている善悪の基準」の意味があります。(良心conscience …… con-「共に」/science– scire 「知る」)。「共通の善悪の基準」でありながら、しかし実際にいつ良心の基準が働くかというと、はなはだ始末が悪い。悪いことをした時、自分で気づき、あるいは他人からこっぴどく指摘され、あるいは、多くの人々の前(例:マスコミなど)で明らかにされ、その時始めて良心のうずきを感じることがあります。良心の役割は大変重要であると共に、ある意味では始末が悪い。パウロは自分の心の中で、ある基準に従えばそれでも良いし、又、別の基準に従えば悪く、自分の心の中に良心どうしが訴えたり弁明したりする、と言っています。 /n信仰を通して  しかし良心は、悪を指摘し、間違ったということを自覚せしめますが、罪の自覚を生じるまではいきません。律法はキリストに導く教師・案内係かもしれませんが、すぐはそういきません。パウロはキリストに出会って、キリストの救いをいただいて、「律法は罪の自覚しか生じない」と告白したのではないか、と言わざるを得ません。つまり律法は、神の本来の義である「キリスト」そのものをすぐに証し、教えるのではなくて、信仰を通して初めて、罪を告白する、そのことに至る、そこで初めて「罪の赦し」ということ、「『神の義』とは私達を赦して義とすること」に至るわけです。 /n律法は「義を求めさせる働き」を持つ  このことをキリストの語られる話から考えてみますと、「神の求めている義」というのは、「キリストを告白する」ことでありますけれども、しかし、神の義そのものは、律法によって「神に仕え、神に従うこと」を求めており、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)「律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(同18節)と、こういうことを主イエスは神の義としてお示しになっています。  このことをキリストによって受け止めるならば「律法」とは、してはならないことを示すと同時に(様々な形で私共に普通の人間として、悪いこと、間違っていることを自覚させるだけでなくて)、この神の義が、神に仕えること、あるいは天の父が全き者であるように全き者となれ、と、「義を求めさせる働き」をも持っているのではないかと思います。そして最初に申しました「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力を尽くして神に仕えよ、崇めよ」・・こういう事柄は、実は私達にとっては礼拝しかないわけであります。「礼拝」とは神に仕えること、欧米の言葉では「worship service・・神に奉仕する、ひざまずいて神を拝む」という意味です。それを私共がすることをゆるされている。これは最大の戒めを、私共が出来る形で守ることがゆるされているといえるでしょう。 /n全くあれ  「全くあれ」という主イエスの教えは、私共にとっては不可能なことでしょう。但し主イエスが律法の完成者(律法を成就した律法の終り)ですから、キリストにさえ従えばよい、キリストを受け入れさえすればよろしい。神の言葉を受け入れる、神の言葉を聞く、ということによってしか、キリストに聞くこと、全き者に近づくことは出来ません。キリストに聞くという形でキリストに従う時、神を敬い神に仕える礼拝が、旧約新約を通しての最大の神の戒めであり、それを守る、真の礼拝をささげることがいかに重要なことか、が理解されます。ロマ書を通して「律法」と「十戒の前半」そして主イエスの「二つの戒め」から教えられるのです。(文責:佐藤義子)