「罪人を招くために」  平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 53章11-12節 11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。 12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。 /n[マルコによる福音書] 2章13-17節 13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 /nはじめに  今日の聖書には、「群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた」(13節b)とあります。群衆と呼ばれる人々はイエス様の話を聞いて、「今迄とは違う権威ある教え」であることに気付き、「汚れた霊の追放」「多くの病人の癒し」などを見ることによって神様の力の偉大さを実感し、神様を素直に賛美できたのでしょう(12節)。神様をまっすぐに求める人々にイエス様は教えられました。人間社会の傲慢さや みにくさや ゆがみに打ちひしがれて、砕かれた魂で、神様の御言葉や救いにのみ必死に頼る人々・・。その前でこそ、神様の憐れみが豊かに注がれて、そういう人々だからこそ、その恵みを 恵みとして受け止めることができるのでしょう。 /n当時のイスラエル社会の階層  当時、社会は大きく三つの階層に分れていました。「聖」・「俗」・「汚れ」です。「聖」は祭司階級、「俗」は一般民衆、「汚れ」は律法で汚れているとされる病気の人・規則を破った者(犯罪人)・汚れた人々と接触して清めの儀式を経ていない者・真の神を崇めない異邦人(外国人)・・などです。イスラエルは「神の選民」を誇りとし、身も心も、そして社会も、「聖」でありたかったのでしょう。しかしこれが差別する側とされる側の分裂を引き起こし、差別する側には傲慢さや冷淡さが、差別される側には疎外感や諦めや無気力が生まれ、愛のない硬直した社会となりました。神様とはまるで逆の、サタンの特性がはびこるようになります。 /nレビ  今日登場するレビは「徴税人(取税人)」で「汚れ」のグループに入れられ、忌み嫌われて社会から除け者にされていた一人でした。徴税人とは人々から税金を取り立て、それを支配者であるローマ(異邦人)やヘロデ王に納め、更に、税金に上乗せしてより多くのお金をむしり取る「お金」に魂を売ったような生き方を選んだ「宗教的に汚れた」人々です。 /n召命  イエス様が収税所の前を通られた時、レビは、(イエス様の霊の力で何かを見抜かれて)「<span style="font-weight:bold;">私に従いなさい</span>」という召命を受けたのでした。社会で一番下に置かれた「汚れた徴税人」が、恵みの輪の外にいたにもかかわらず、突然、神様側からの呼びかけという恵みの中に引き入れられたのです。人間側の評価やその人の立場は、神様には全然関係がありません。神様はそんな枠を簡単に超えられます。召命は人間側から見れば突然です。私達人間は罪にひきずられて、神様の声を聞かずに済まそうとする傾向があります。しかしこの世の富・名声・楽しみなどに心を奪われずに神様の呼びかけにすべてを捨てて、この世から立ち上がって従っていけるようになっているか、自分自身を吟味したいと思います。 /n食事の席で・・  この後イエス様はレビの家で食事の席につかれました。同席していたのはレビと同じ徴税人や罪人でした。「汚れた人々」と食事を共にしているイエス様に対し、ファリサイ派の学者は(無頓着であると)非難しました。イエス様は、人間を分断する彼らの生き方が本来の神様の愛や本質から如何にかけ離れたものであるかを瞬時に把握されます。愛にあふれるイエス様にとって、人々がファリサイ派の教えなどにより打ちひしがれた状態に置かれたままであることに対して悲しみを覚え、そういう人々に憐れみを覚えられたことでしょう。イエス様は「<span style="font-weight:bold;">医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。</span>」(17節)と言われました。 /n「<span style="font-weight:bold;">正しい者はいない、一人もいない。」</span>(ロマ書3:10)  私達すべての者が持つ罪や汚れは、イエス様がそのまま請け負い、身代わりになって十字架上で贖い、それによって私達は聖(きよ)さの源の神様に連なることが許されるようになりました。御子イエス様は人間としてその苦渋の務めを果たされ、神様の救いが完成されたのです。神様からの招きを受けて、神様に向かって方向転換をし(=悔い改め)て、神様に心を向けて生きていきたいと思います。