「今日がチャンス」  温井節子(角田教会伝道師)

/n[創世記] 28章15節 15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 /n[ローマの信徒への手紙] 13章11-14節 11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。 12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。 /nはじめに  ある本にこんな記事がありました。一人の青年がふしだらな生活にピリオドをうって、神様を信じて新しい人生に入りたいと思いました。ところがそのことを知った悪魔たちが集まり、そのことを阻止しようと作戦会議を開きました。悪魔の手下Aは、「罪の快楽をどっさりこの青年に見せたら、誘惑に負けて神様から遠ざかるだろう」と提案しました。手下Bは、「神様を信じて従っていくことは堅苦しくて楽しくない毎日が待っている、と教えたら神様を信じることを断念するだろう」と提案しました。手下Cは、「神様に従っていくのは良いことだ。素晴らしいことだよ、と大いにほめる。しかし急がなくても良い。今でなくても良い。又の機会でも良いことを教える」ことを提案しました。ボスの悪魔はこれら三つの提案を検討しました。青年が神様を信じて新しい生活に入るのを妨害する最も効果的な提案は、A「快楽の喜びを示す」、B「神様の道は無味乾燥である」、C「決断は今でなくても良い、延期せよ」のどれでしょうか。  ボスの悪魔が採用したのは、決断を延期するCでした。私達も何か良いことを決断する時に「今日でなくて明日」ということがしばしばあるのではないでしょうか。ダイエットにしても勉強にしても、今日はやめて明日からにしようとします。しかしこの延期方式はうまくいかないことが多いことを私達は経験しています。 /nロマ書13章11節の「今」  今日の聖書でも「今」が大切だといっています。「あなたがたは 今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私達が信仰に入った頃よりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。」救いが近づいたのはキリストの再臨が近づいたということです。この世はキリストの再臨をもって終るのです。この世の終わりが近づいたというのです。イエス様のおいでが近づいたというのです。世の終りがいつくるかは誰もわかりません。しかし来ることがはっきりわかっているものがあります。それは自分の人生の最後です。キリストの再臨が来る前に自分の人生の終ってしまうことが多いです。この世に終りがあるように、私達の人生にも終りがあります。キリストの再臨に確信がない人も、自分の人生の終りがくることは、いやでも認めなければなりません。 /n眠りから覚めよ  今はどのような時でしょうか。パウロは「眠りから覚めよ」といいます。ということは、私達は今、現在、眠っていることを意味しています。私達が勉強したりテレビを見ていると目が重くなる時があります。使徒言行録20章9節には、エウティコという青年がパウロの説教中、窓に腰かけていたけれども眠って3階から落ちたという記録もあります。私達がうつらうつらする時、周囲は眠っていると見ますが、本人は「起きている」ように思っています。私達も信仰的に、同じようなものではないでしょうか。信仰的に、霊的に、「眠ってなんかいない。起きている」と思っても、パウロのような信仰の達人からみれば眠っているようにも見え、あるいは本当に、信仰的に眠っているのかもしれません。私達が眠い時に起こされると「もう少し眠らせて」といいます。なかなか起きようとしません。本人は気持がよいので眠っていたいのですが、今、起きなければ大問題が起きる可能性があります。起きるべき時があります。パウロは「今が大切。明日はないかもしれない。だから今起きなさい。今、今日、起きよ。時が迫っている。」と起すのです。私達はもっと眠っていたくても起きなくてはなりません。起きるべき時がきているからです。それは明日ではなく、今日、今なのです。 /n闇の行いを脱ぎ捨てる  それでは起きてどうするのでしょうか。12節を見ると、「だから闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」というのです。まるで私達が闇の行ないにかかわっているような言い方をしています。私達クリスチャンは闇の行ないなど関係ない。これは神様を信じていない人達へのメッセージであって、信じている私達にではない、と思うのは私だけでしょうか。しかしこの手紙は12章の初めに「兄弟たち」と呼び掛けていますから、この13章はその続きでクリスチャンへのメッセージです。未信者は、霊的に死んでいるといわれます。クリスチャンはキリストと聖霊の力で罪が赦されて霊的に生きています。しかし霊的に生きているクリスチャンでも闇の行ないと無関係ではありません。  闇の行ないを捨てよといっていますが、この闇の行ないとはどんなことを指すのでしょうか。13節に「酒宴、酩酊、淫乱、好色、争い、妬み」の6つがあげられています。リビングバイブル訳では「どんちゃん騒ぎをしたり、よっぱらったり、姦淫したり、肉欲にふけったり、争ったり、妬んだりして、時間を浪費してはなりません。」と訳されています。自分に関係する項目はない、という人もいるでしょう。これは一世紀のローマ市におけるクリスチャンの生き方に関係しています。パウロが当時の闇の行ないをあげたら数えきれなかったと思います。コリント市における闇の行いについては、第一コリント6章9節-10節にあります。(みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者)。それぞれの都市における警戒する闇の行ないは違ったのです。闇の行ないとは肉の行ないです。神様に逆らう行ないです。パウロが今生きていたら、どんな闇の行いをあげるでしょうか。  「争い」、「妬み」はクリスチャンと無関係とはいえないでしょう。党派、分裂、分派・・は教会の中にもあるのではないでしょうか。パウロのいう闇のわざはクリスチャンに無関係ではないのです。 /n夜は更け  どうしてクリスチャンの世界、生活に闇の行ないが入ってくるのでしょうか。12節に「夜は更け、日は近づいた。」とあります。パウロの時代判断ではクリスチャンは今、夜の時代に生きています。クリスチャンは世の光、光の子供です。光が弱くなると、闇はクリスチャンの生活に入ってきます。今、夜の9時だとしましょう。停電になりました。闇は遠慮なく部屋に入ってきます。家の中はローソクで少し明るくなりましたが、外には闇が取り巻いていますから、油断すれば闇は遠慮なく中に入りこんできます。犯罪も大抵、暗闇の中で起こります。暗闇の中に何が待っているかは誰にも見えません。しかし暗闇の中には悪しき行ないを起こす者が動めいています。光がなくなると暗闇の力が家の中に入り、体の中に入ってきます。そしてクリスチャンを眠らせたり、不道徳なことに誘惑するのではないでしょうか。一ペテロ5:8に「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。」とありますから、クリスチャンは目を覚まし、起きて、「闇の行ないを脱ぎ捨てよ」とパウロは叫びます。ヘブル書12:1でも「すべての重荷や、からみつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と勧めています。クリスチャンには信仰生活にブレーキをかける[重荷]や[からみつく罪]があるのです。 /n重荷と罪  信仰生活にブレーキをかける重荷とは何でしょうか。毎日聖書を読む、ということが重荷という人もいるかもしれません。又、教会やクリスチャンを取り巻く外の世界は闇の世界です。クリスチャンも知らず知らず、だんだんこの世的になってきます。少しずつ闇の世界が浸透してきます。カエルは外の世界と同じ体温を保つので、気温が上がると自分も同じ体温になります。ですから外の温度の上昇には気付きません。「いい湯だな、気持良い」と喜んでいるうちにお湯の中で死んでしまいます。少しずつの変化に気付かないことが多く、気付いた時にはもう遅いのです。クリスチャンも、教会も、知らない間にまわりの世界に似てきます。ですからパウロは、ロマ書12章2節で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」と警告しました。 /nそれから?  闇の世界から侵入してくる「闇の行ない」を脱ぎ捨てました。それからどうするのでしょう。これでは禁欲主義になってしまいます。「あれをするな、これをするな」では、面倒な消極的な宗教になってしまいます。14節では「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」といわれています。 /nイエス・キリストを身にまとう  キリスト教は消極的な宗教ではありません。捨てるだけではなくてイエス・キリストを着ていきたいと思います。クリスチャンは天国の市民です。天国にふさわしい服を着たいと思います。私達が結婚式に行く時、それにふさわしい服を着ます。天皇陛下のお茶会に招かれた人は、それにふさわしい服装をします。エプロン姿や作業服で出席する人はいません。  天国の市民にも天国にふさわしい服装があります。それがキリストの衣、キリストが与えて下さる衣です。キリストの衣とはキリストにふさわしい生活のことです。暗闇の世界の影響を受けた私達の衣は、少しずつあちこちにしみがついたりほころびたり、破れたりしているかもしれません。イエス様から新しい衣をいただく必要があります。ヨハネ黙示録3:18でラオディキアの教会の人達は、自分達は豊かで満ち足りていると考えていましたが、神様の診断は違っていました。「あなた方は裸だ。裸の恥をさらさないように、身につける白い衣を買いなさい」と忠告されました。  「白い衣」とは清い生活のことです。又、ヨハネ黙示録6:11では、天国で殉教者に「白い衣」が与えられました。キリストを着る。キリストの衣を着る。それは清い生活のことです。イエス様が下さる白い衣は、闇の中では光の武具となるのです。光の武具を身につけるとは、「キリストを身にまとう」と同じことです。フィリピ書2:15-16に「よこしまな曲った時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」とあります。イエス様の下さる衣は、内に対しては霊的命を守り、外に対しては輝くのです。 /nアウグスチヌスとフェリクス総督  4-5世紀にかけて活躍したクリスチャンの指導者にオーガスチン(アウグスチヌス)がいます。彼は若くしてローマの大学の教師になりましたが、一方、放蕩の不道徳の若者でもありました。母モニカは、彼の為に祈りに祈りました。彼女は「涙の子は滅びない」という言葉で有名になった人です。アウグスチヌスは自分の悪い生き方を反省しているようですが、なかなか足を洗うことができません。競輪競馬が好きな人はやめようと思ってもやめられないそうですが、アウグスチヌスも同じように、いつまでこのような悪い生き方を続けるのだろうか、と自分でも情けないと嘆いていました。「神様、いつまでですか」とうめくように祈りました。その時です。急に「取りて読め、取りて読め」と子供の声が聞こえてきました。これは「聖書を開け」ということだな、と聖書を開きました。その時、このロマ書13章の11節から14節が目に入ってきました。  今日の聖書の箇所です。これを読んだ時、彼の眼が開かれました。彼は勇気と力が与えられ、その時、その場で、彼の放蕩の生活に終止符を打つことが出来ました。明日からとは言いません、今日、今からキリストを着ます、キリストにある新しい生活を始めます、と決着をつけたのです。その足で母の所に駆けつけ決心を話しました。勿論母は大変喜びました。まもなく母は召天しました。アウグスチヌスの決心がもし遅ければ、母を喜ばすことは出来なかったでしょう。今がチャンスなのです。アウグスチヌスは母の死後、北アフリカのヒッポという町の司祭となり、40年以上奉仕し、76歳で母のいる天国に凱旋しました。対照的なのは、使徒言行録24:25にあるフェリクス総督です。  「パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり『今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする』と言った。」とあります。フェリクス総督は、今、今日、決心出来ませんでした。「明日」「今度」と伸ばして、二年後には後任のフェストゥスと交代したのです。救いの機会は永遠に失われました。 /n今日がチャンス  私達も、今日、今、という時を逃してはなりません。闇の行いを脱ぎ捨てて主イエス・キリストを着ようではありませんか! 光の衣を着ようではありませんか! 光の武具を身に着けようではありませんか!キリストにふさわしい清い生活を始めたいと思います。 >> 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗した時のように、心をかたくなにしてはならない。」(へブライ書3:19) <<

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