「新しい民として」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 58章3-7節 3 何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。 4 見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。 5 そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。 6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。 /n[マルコによる福音書] 2章18-22節 18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。 21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」 /nはじめに  今日は受難節第5主日です。この受難節に入ってから、週報の報告欄にいつも「克己・修養・悔い改めの期間として過ごしましょう。」とあります。「克己」は文字通り己に克つことです。罪に引きづられてしまう自分の弱い部分の克服に努めること、食欲・性欲・怠惰など欲望に引きづられる悪い習慣を直すように努めて生活しましょう、ということです。「修養」は、聖書の御言葉や信条などを学んで体得すること・・「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと、また、徳や称賛に値すること」(フィリピ4:8-)、修養によって、これらの徳目が備わるようにと神様から期待され、愛され、導かれています。ガラテヤ書に「キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(3:27)とあります。「悔い改め」は、自分中心の考え方・生き方から神様中心の考え方・生き方に完全に方向転換することです。 /n受難節と洗礼  受難節と洗礼は、歴史的に密接な関係がありました。古代教会において、洗礼は一年に一度、復活日(イースター)のみに行われてきました。福音を知らずに死の世界にいた罪人が、イエス様の贖いを通して神様のもとに新たに生きるようになり、神様中心の教会をつくるという図式は、まさに「復活」であり、サタンの支配する死の世界を神様が打ち滅ぼし勝利したということです。ですから、そのイースターの前に置かれたこの受難節は、洗礼志願者にとっての準備の時として「克己・修養・悔い改め」が最重要課題でした。過去の悪癖を断つ決意と努力、御言葉や主の祈りや使徒信条など仲間内でしか明らかにされない極秘の大事な御教えを伝授され、深い懺悔と罪への悲しみをあらわす「灰をかぶっての祈り」を献げイエス様の十字架上での御苦しみに思いを馳せながら断食する期間でもありました。  克己・修養・悔い改めをしっかり実行していこうとすれば、罪の大きさ、罪との断ち切り難さ、逃れ難さを深く探っていくことができます。その恐ろしさ・重圧を知り、体験し尽くさなければ、逆に神様の側へと解放された喜びを味わうことが難しく、中途半端な信仰になるでしょう。罪の恐ろしさの認識を経て始めて、罪の縄目を解いて下さった主イエスの十字架の贖いへの感謝が生まれ、揺るがぬ信仰を持つことができ、自由にされた真の喜びにあずかることができます。そのような人こそ「自分の体を聖なるいけにえとして献げる」ことができ、真の礼拝の喜びにあずかれるのです(ロマ書12:1)。 /n「断食」  今日の聖書では、バプテスマのヨハネの弟子達と律法遵守の形式主義者ファリサイ派のグループが断食しているのに、断食を表立ってしていないイエス様の弟子達の行動の根拠を、人々が指導者イエス様に質問する形で「決められた形を守らないのは間違っている!あなた達のやり方は正しくない!」と非難しています。彼らは神様の御心よりも「断食」を守ることを第一と考え「あの人達は律法をちゃんと守って偉い、凄い」と人々からの評価を期待し、見えるところだけを考えて生きている人々として描かれています。神様を第一に考えるべき宗教界にあってさえ、人間の評価や人間の思惑を第一に考える、当時のユダヤ教の限界を示しています。神様第一ではなく、人間の目・第一主義を「罪」といいます。 /n新しい民として  イエス様は断食しない理由を、御自身を婚礼の「花婿」に、弟子達を「婚礼の客」に譬えました。そしてイエス様が奪い去られる日が来ること(受難の預言)、その時には「断食することになる」と預言されました。  今日の箇所は、イエス様が、古いユダヤ教の形式的な束縛から人々を新しい福音という自由へと解放して下さった宣言と聞きます。イエス様を信じる私達は、神様から新しい民とされ「胸の中に主の律法を授けられ心にそれを記し、心の中にしっかりと主を神として立て、小さい者も大きい者も『主を知っている』状態にある」(エレミヤ31:33)とされています。私達はイエス様という福音を新しく授けられた民です。(後略)