「主を喜びとする」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 58章13-14節 13 安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら 14 そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ/父祖ヤコブの嗣業を享受させる。主の口がこう宣言される。 /n[マルコによる福音書] 2章23-28節 23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 28 だから、人の子は安息日の主でもある。」 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様とファリサイ派の間に起った「安息日論争」といわれる大問題の一つです。ファリサイ派の人々は、イエス様の弟子達が麦の穂をつんで食べた行為を「収穫」(労働)とみなして攻撃しました。神様の憐れみなど豊かな恵みを伝えるのではなく「何が何でも律法遵守」と民衆を抑圧して苦しめてきたことは1章21節以下にも記されています。それに対してイエス様は、律法などの「形式」が第一の優先事項ではなく、「神様に喜ばれる性質を伴って、神様に従って生きる」ということこそが、神様が私達に求めておられることだと、ダビデ王と供の話(サムエル記上21:2-6)を用いて示されました。 /nイエス様は神の御子  ダビデは偉大な王でしたが罪深い一人の人間です。一方イエス様は神の御子としてこの世に来られ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という御声を天から受けられました(1:11)。そして「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)と神様の御子として、神の国の到来を高らかに宣言されました。しかし民衆の「不信仰」という罪のゆえに十字架刑にかかり、自らを犠牲とされ、それによって人々の罪をあがなわれました。更に復活=死に対する勝利、を父なる神様から与えられ「贖い主」「救い主」となられました。今やサタンの支配下にあった「この世」の主権を回復されて、イエス様を神の御子と信じる者は、一人も滅びず永遠の命を得るのです。 /n神の安息にあずかる  かつて自分がいた「神様のいない世界」では、いかに束縛と不自由の中におかれて苦しみ辛かったか、いかに一時的なものにすがっていたかを静かに深く探る時、神様の恵みにあずかってからの自分が、いかに安息を得、落ち着いた豊かな気持に満たされているかを、祈りや礼拝の中で、又、御言葉の中で知らされます。 「ヘブライ人への手紙」の3章-4章に、「御子イエス様を信じる者には旧約時代イスラエルに約束されていた『神の安息』が与えられる。だからこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。」とあります。又12章には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエス様を見つめながら、自分に定められた道を忍耐強く走り抜こう」「私達は揺り動かされることのない御国を受けているのだから感謝しよう。畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」との励ましの言葉があります。 /n人の子は安息日の主  律法は、神様が憐れみを覚えられる人間の為に与えられたものです。人間が「○○を守れ」という人間の意図を含む規則に支配されるなら、それは主客逆転であり、神を神としない偶像崇拝になります。今日の旧約聖書イザヤ書58:13-14には、神に従う道とは自分の欲望に従うのではなく、主を第一と考え、主の聖日を尊ぶべき日と呼ぶ、即ち、「主を喜びとする」ことと書かれています。私達は神様を第一と考えて生活し、主の日は神様第一の、神様を喜びとする礼拝を献げているでしょうか? /nこの世のことに向かう態度と礼拝に向かう態度  私自身、かつて信仰生活の初めの頃は、礼拝には半ば義務的に行っていました。しかし信仰の友の、「礼拝に出席した後には、コンサートの後の高揚感、いや、それ以上の充実感が与えられる」との言葉を聞いて、考えが変わりました。コンサートやスポーツの試合などには一時の幸福感のために、早く行き、しっかり向き合い、味わい、余韻を楽しみます。まして、自分を辛い世界にがんじがらめにしたものから永遠に解放して下さった神様と御子イエス様に献げる礼拝に、それ以下の態度で臨む時、その礼拝は神様に喜んで受けていただけるでしょうか。私達はイエス様の大いなる救いの恵みにあずかっているのですから、信仰を共にする兄姉と礼拝を献げる安息日こそ、御子イエス様が御自分の主権をこの世に宣言された喜びの日として、その御恵みを心から祝いたいと切望します。そしてこの一週間も、主を喜びとできるよう、喜びを共有し、生かされていきたいと願います。最後にコロサイ書3:15-17をお読みします。 >> また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。 (コロサイの信徒への手紙3章15-17節) <<