「命の言葉を告げる」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 40章6-8節 6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。 7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。 8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。 /n[使徒言行録] 5章12-26節 12 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、 13 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。 14 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。 15 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。 16 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。 17 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、 18 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。 19 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、 20 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。 21 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。 22 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。 23 「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」 24 の報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。 25 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。 26 そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。 /nはじめに  弟子達を初め、イエス・キリストを信じる人々は、エルサレム神殿のソロモンの回廊に集まり<イエス・キリストは今も働かれている>ことを語り伝えていました。多くの男女がイエス・キリストを信じる群れに加わり、群れは大きく広がっていきました。使徒達はイエス様と同じように病人に手を置いて癒しを祈りました。神様の手の道具として使徒達の手が用いられ「イエスによる信仰が、あなた方一同の前でこの人(足の不自由な人)を完全に癒したのです。」(3:16)と証しし、ペトロ達の名前はエルサレム近郊にまで知れ渡り、多くの病人や汚れた霊に悩まされている人々が使徒達のもとに連れて来られ、「一人残らずいやしてもらい」(5:16)ました。 /nまことの癒し主  私達は病気になると、医者に診てもらうか、薬を飲むことをまず考えがちです。しかし私達の病気を癒すのは、私達に命を与え、命を支配されている神様です。私達は、神様こそがまことの癒し主であることを信じる信仰に立ち、神様に癒しを祈り、医者を必要とする時には神様が良き医療者を備えて下さるように、更に、その医療者が最善の医療を施すことが出来るように導いてくださいと祈りたいと思います。 /n天使を遣わして語らせる神様の命令  5章17節からは場面が変わり、大祭司とその仲間達が、使徒達に向けて激しい嫉妬と怒りを起こし、使徒達を捕まえて投獄してしまいました。理由は、使徒達による多くの奇跡やそれに伴う人々の尊敬や称賛でした。ところが夜中に主の天使が牢屋の戸を開けて「神殿で命の言葉を語るように」と命じました(19節)。使徒達は「命の言葉」を語るがゆえに、この世の権力者によって捕えられ、そして、「命の言葉」が語り続けられる為に、神の御使いによって牢から出されたのです。使徒達は神の使いが命じた通り、朝早く、神殿の門が開くとすぐ境内に入り、一日を宮で祈ることから始める人達に「命の言葉」を語り、教え始めました。 /n「命の言葉」を語る  命の言葉を語るとは、イエス・キリストについて語り、イエス・キリストの言葉、教え、その生涯(十字架と復活)について語り、イエス・キリストが神の御子であり、救い主であることを伝えることです。そして、イエス・キリストについて語られた言葉を信じる者には真の「命」が与えられます。命の言葉は、私達を罪から離れさせ、イエス・キリストへと導きます。そして、信じる者には「神の裁きと死」から解放されて、真の命がもたらされるのです。ねたみに燃えた大祭司と仲間達が使徒達を捕えて「命の言葉を語る」機会を奪おうとしましたが、神様は使いを送って再び使徒達に語らせ、今日までこの「命の言葉」は受け継がれ、求める者にはいつでも信仰によって真の命が与えられるのです。 /n神を見ず、人を見る罪  夜中の出来事を知らず、大祭司と仲間達は再び議会を招集して使徒達を引き出そうと牢に人を差し向けましたが、牢は空(から)であるとの報告が届きました。彼らは「どうなることかと、使徒達のことで思いまどい」(24節)ました。つまり自らの行為の正当性についての確信はなく、自分達の力を超えた現実を目のあたりにして途方に暮れたのです。彼らはこの時、自分達の伝道禁止命令が神によって破られたことを認めるべきでした。にもかかわらず大祭司とその仲間達はかたくなになり、神様の前に立ち帰ろうとはせず、使徒達の再逮捕に向かいました。しかし、民衆の反感を買って石を投げられることを恐れ(民衆は使徒達を称賛していた)、使徒達を乱暴に扱う事も出来ませんでした。ここでも彼らが神の前ではなく、人を見て行動していることが明らかにされます。 /n引き継がれている命の言葉  「命の言葉」は、時代を超えて継承され、今朝も私達に聖書を通して語られています。聞いて信じる者にはイエス・キリストの命が注がれ、私達を日々新しく生かしてくれます。イエス・キリストと共にある確信、救いの喜びが日々与えられるように祈りましょう。