「真の岩なるキリスト」 倉松功 先生

/n[詩編] 95編1-7節 1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。 2 御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。 4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。 5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 /n[マタイによる福音書] 16章13-20節 13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 /nはじめに  本日は、私達プロテスタント諸教会の成立のきっかけとなった宗教改革を記念して礼拝を捧げることになりました。宗教改革の意義というのは、聖書の解釈、つまり聖書の理解の中に、最も中心的なものが表れてくるのではないかと思います。そうでなければ、宗教改革の中心的なものは、「聖書の本当の真理を解き明かす」ということにならないわけです。「聖書の一番大事なことを理解する」ということに、宗教改革の意義、特色が表れている、ということが言えると思います。聖書のすべての理解が カトリック教会と違うというわけではなく、むしろ理解が違うところはそれほど多くないと思います。そう多くない中で、今日の聖書の箇所は最も大事なカトリックとの違いを示している箇所ではないかと思います。 /n主イエスの第一の質問  本日の聖書では、主イエスが弟子達に対して二つのことをお尋ねになっています。第一の質問は、人々は「人の子」を何者だと言っているか、という問いです。「人の子」というのは、主イエスが御自分のことをそう呼ばれたのです。主イエスの自称です。「私はこういう者」という時に、「私は人の子だ」とおっしゃったのです。「何者だと言っているか」との問いに対して弟子達は「洗礼者ヨハネ、或いは(最も良く知られていた旧約時代の)預言者エリヤ、エレミヤだと人々は言っています」と答えています。 /n第二の質問  次に主イエスは「あなた達は私を何者だと思っているのか」とお聞きになりました。するとペテロは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です。」と答えました。このペテロの答えは、主イエスが期待していた答えだったのです。 /n「人の子」  「人の子」は聖書から考えて見ますと、旧約聖書イザヤ書にあるように、私達の罪の贖い(あがない)、罪の赦し、救いの為に十字架の苦しみを受ける救い主(メシア)のことです。同時にダニエル書には、人の子は、この世界の終りの日(最後の審判の時)に、神の栄光に包まれて来られる、そういう方のことです。ペテロは主イエスをそのような「人の子」としての歩みをなさっていると答えたのです。これはキリスト教の中心をなす本当に大切な信仰です。 /nペテロに信仰告白をさせた方  しかしこの信仰の告白を、ペテロは、この時、主イエスがどんな形で人類を救いながら、十字架と復活をどういう形で遂行するのか何も知らない状況でした。ペテロに限らず他の弟子達も、主の十字架と復活については何もまだ知りませんでした。ただ主イエスを神の子、救い主として、受け入れたのです。このペテロの告白に対する主イエスの対応、語りかけが、本日の聖書の中心となっています。主イエスは「バルヨナ・シモン(ヨナの子シモン=本来のペテロの名前)」と語りかけ、主イエスが救い主・キリストであり、世の終わりに再臨する神の子である、とペテロに教えたのは、「主イエスが誰であるか、ただ一人知っておられる神である」と語られています。主イエスは「ペテロ、おまえ自身が本当にこのような信仰告白をした」とは言っておりません。ただ一人知っておられる父なる神がこれを示したのだと言われています。これは私達にとって大変重要な言葉でしょう。この主イエスの言葉は、「誰も神の霊(聖霊)によらなければ、イエスは主であるとはいえない」(コリント12:3参照)と言ったパウロの言葉を想い起こさせます。全聖書、新約聖書全体がそういっているというふうにも思います。これは、主イエスの言葉をパウロを始め、弟子達がよく身にしみていたということでしょう。 /n「この岩の上に教会を建てる」  主イエスは、ヨナの子シモンにペテロ(岩)という名前を与え、この岩の上に教会を建てる。しかもその教会は、死によっても滅ぼされないと付け加えています。これはペテロに対する大変な祝福です。大変な祝福でありますが、大事なことは、マタイ福音書18章にキリスト者が二人三人集まる所に私もそこにいると言われ、その二人・三人の集まりに、これと同じ言葉(地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは天上でも解かれる)を主イエスは(教会に)与えています。これも見逃すことは出来ません。これは「あなたは生ける神の子・キリストです」という告白に対する、主イエスの祝福の言葉ということになるでしょう。 /nローマカトリック教会  このペテロに対する祝福、そしてこの岩の上に教会が建てられ、地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる、そういうこの救いに対する権利を、カトリック教会はペテロだけではなくてペテロの後継者である代々のローマの司教・教皇に与えることになりました。ローマカトリック教会の教皇は、代々、キリストの代理者として、カトリック教会の頂点に立ち今日に至っております。カトリック教会では全世界の教会が一つのカテキズム(教理問答)を学んでおり、その中に、教皇について次のように述べております。「ペテロの後継者である教皇は、教会の上に、完全、最高、普遍の権能を有し、それを常に、自由に行使することができます。」このように、マタイ福音書16章の18節-19節は、代々のローマ教皇の主張、権利の根拠となり、私共プロテスタント教会との大きな違いです。 /n教会が建てられる岩とは  別の角度から見てみたいと思います。それはペトロ自身のことです。まず宗教改革者ルターやカルヴァンは、教会が建てられる岩というのは、ペテロが告白した「主イエスご自身」のことだと反論しました。この反論を、ルターは何度も何度も繰り返し語りました。ローマ教皇の、古代の末期から続いてきた教皇の権利に対して、繰り返し繰り返し、それは聖書の証言ではないと言い続けたことに、ルターの意義があるのではないか、といってもいいのではないかと思います。ルターの根拠は、使徒パウロが「教会の頭はキリストで、教会はそのキリストの体である。キリストに結ばれて、その体を全員がつくる」と言っている言葉です。そのキリストの体を構成する一人として、その枝の一つとして各々がいるので、決して、上位の区別、差別はないということを言っています。文脈の上では「この岩の上に教会を建てる」という主イエスの言葉は、ペテロ個人について言われているようにも理解されますが、そのペテロは、同じマタイ福音書の16章23節では「サタンよ引き下がれ」と、主イエス・キリストから言われています。これも一つの驚きです。更に、主イエスが十字架につけられる直前にペテロは三度も主イエスを知らないと裏切りました。宗教改革者達が主張したように、教会は「主イエスは神の子・救い主・キリストである」と告白する人々によって成立してきたし、成立すると言わなければなりません。 /n岩とは主イエス・キリスト  詩編95編に「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。」とありました。詩篇31編には「主は私の大岩、私の砦、私の神、砦の岩、城塞」と言っています。又、パウロはコリントの手紙10章4節で、モーセに率いられたイスラエルの民が、荒野で霊的な飲み物を、霊的な岩から飲んだ。「この岩こそキリストだったのです」と言っています。このような聖書箇所を根拠に、又、ペテロ自身の歩みを参考にするなら、宗教改革者達が言ったように、教会がその上に建てられたというのは、ペテロが告白した、その主イエス・キリスト、あなたは生ける神の子、キリストです、との告白、岩なるペテロが告白した主イエス・キリストだとの理解は間違いではないでしょう。即ち、主イエスを「生ける神の子」と告白する人々なしに、教会の集まり・共同体はありません。 /n「私はあなたのために祈った」  しかし、ペテロの上に教会が建てられるということと、ペテロの告白したことの上に建てられるというのは、必ずしも結びつくとは限りません。しかし聖書全体を読んでいきますと、結びつかざるをえないようにも思います。それは、ペテロが三度主イエスを否認する前に、主イエスからこう言われています。 >> 「あなたは私を否認する。しかし、私はあなたの為に、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい」(ルカ22:32) <<  この主イエスのペテロに対する祈りが、この二つの矛盾を結びつけているのではないかと思います。このような「まことの岩としてのキリスト」の導き・働きが、ペテロを支え導いていた。そこではじめてペテロは一つの岩となり得たのではないでしょうか。主イエスの先立つ恵みのゆえに一つの岩であり得たのではないかと思います。 /n私達に知らされている多くの証言  このペテロに比べて私達はどうでしょうか。私達は主イエスの地上の生涯だけではなく、主イエスについて旧約聖書はもちろん、福音書や使徒達の手紙によって沢山の知識が与えられています。たとえば「御子は見えない神の姿であり、全てのものが造られる前に生まれた方です。・・万物は御子において造られたからです」(コロサイ1:15-16)。「神の言葉としての御子によらないで創造されたものは何一つなかった」(ヨハネ1:3参照)などです。さらにペテロが(この告白の時点では)何も知らなかった主イエスの救いの御業の遂行についても、十字架と復活の出来事と意味について、使徒パウロから非常に力強い証しが与えられています。私達はそのような主イエスについての証言を受け容れ、主イエスを救い主・キリストと信じ、告白することによって、ペテロと同じ約束と祝福を与えられているのです。すなわち私達一人一人がペテロと同じ「岩」と呼ばれ、その上に教会が建てられてきたのです。 /n万人祭司  これが、「キリストを信じる全ての者が、司祭であり祭司である」というプロテスタントの万人祭司という宗教改革の原理です。宗教改革者ルターは、ローマ教皇あるいはペテロに与えられた信仰・・・それは、キリスト者一人一人にキリストによって与えられる。そのキリスト者一人一人が直接キリストを受け入れる。キリストを通して直接神の前に立つ。そういう司祭の務め、資格が与えられている、と主張します。その信仰は、ペテロと同様、神の聖霊の働きによって与えられた信仰にほかなりません。それは又、真の岩であるキリストが持っておられる信仰が、私達一人一人に与えられるからとも言えるでしょう。それゆえ、教皇と私達、婦人であれ子供であれ、キリストへの信仰において、何の違いもない、とルターは繰り返し主張しました。このことを宗教改革記念として今日、私共が覚えていいことではないでしょうか。 /nキリストの体である教会  まことの岩であるキリストによって、教会が私達の上に建てられています。それゆえ私達は(パウロがいったように)「キリストの体なる教会」なのです。それは目に見える建物としての教会では決してありません。そうではなくて、まことの岩であるキリストを告白する者の上に教会が建てられる・・そういう目に見えない教会です。この教会は、(ニカイア信仰告白にありますように)唯一の、聖なる、公同の(普遍的な)使徒的教会に連なる教会である、ともいえます。まことの岩としてのキリストを信じる者として、そのような大きな恵みと賜物が与えられていることに私共は感謝し、主をほめたたえたいと思います。確かに私達の歩みは、弱く不信仰な歩みです。ざんげや悔い改めを欠くことはあり得ません。しかし主イエスがペテロに語られたように、私達に先立つ主の御守り、恵み、助け、慰め、励ましを与えられつつ、共に歩んで参りたいと思います。私達のまことの岩である主に従う者でありたいと思います。(文責:佐藤義子)