「なぜ恐れるのか」 平賀真理子 伝道師

/n[詩編] 65編2ー9節 2 沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます。 3 祈りを聞いてくださる神よ/すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。 4 罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。 5 いかに幸いなことでしょう/あなたに選ばれ、近づけられ/あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって/わたしたちが満ち足りますように。 6 わたしたちの救いの神よ/あなたの恐るべき御業が/わたしたちへのふさわしい答えでありますように。遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものがあなたに依り頼みます。 7 御力をもって山々を固く据え/雄々しさを身に帯びておられる方。 8 大海のどよめき、波のどよめき/諸国の民の騒ぎを鎮める方。 9 お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い/朝と夕べの出で立つところには/喜びの歌が響きます。 /n[マルコによる福音書] 4章35ー41節 35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。 /nはじめに  今日の聖書で、イエス様と弟子達の乗った舟が渡っているのはガリラヤ湖です。通常は緑に囲まれた穏やかな湖ですが、急に嵐が起こることでも有名なところだそうです。近くの標高800mの高原から、この湖に冷たい風が吹き降ろし、渦巻くことになるからです。ここでもそのような急な嵐だったのでしょうか。「舟が沈む!」とおびえている弟子達と、船尾の方で眠っておられるイエス様がいます。弟子達はイエス様を起こし、「先生、私達がおぼれても構わないのですか。」と咎めました。この言葉の原語を厳密に訳すと、「先生、私達が全滅してしまっても、あなたは気にかけないのですか。」となります。弟子達は主イエス様が何者であるかを、まだはっきりと理解していなかったことが読み取れます。 /n私達が嵐に遭遇する時  イエス様は、この嵐に出会う前までに、神様の権威を持って「御言葉を伝え」、「神の国を教え」、御力で「癒しの奇跡を行って」こられました。弟子達はこの歩みを共にしていたのですから、「イエス様と共にいる限り神様によって舟は守られ、神の御子イエス様の一団が全滅することはあり得ない」と、主への全幅の信頼をもって信仰を貫き通すことが出来たのではないでしょうか。「この大変な時に、あなたが共にいてくださって感謝です。どのようになろうとも、あなたにわが行く末を委ねます。」というような言葉がでてきても良かったのではないかと思います。しかし実際には「先生、私達がおぼれても・・」でした。 私達の人生の中で、このような場面に出会う時、私達はどのように神様と向き合うのでしょうか。また、これまで向き合ってきたでしょうか・・。詩編65篇には、神様を信頼できる恵みが賛美されています。 >> 「私達の救いの神よ・・すべてのものがあなたに依り頼みます。  御力をもって山々を固く据え 雄々しさを身に帯びておられる方。  大海のどよめき、波のどよめき 諸国の民の騒ぎを鎮(しず)める方。」 << /n「なぜ怖がるのか」  イエス様の弟子達への問いかけの原語は、「なぜ、臆病のままなのか」です。続いて「まだ信じないのか」は、「まだ信仰を持つには至らないのか。」です。ここに弟子達の信仰の姿が浮かび上がります。弟子達は「イエス様が神である」ことがどういうことであるのかを完全には理解できていませんでした。ただ、主の召し(召命)に従ってイエス様と共にいたのです。しかしイエス様は、この臆病のままで、真の信仰を持つには至らない弟子達を見捨てることなく、やがて強い信仰が持てるようにと、この問いを通して、弟子達の信仰の成長を根気強く促しておられます。ここに、忍耐強い神様の愛を読み取ることが出来ます。 /n信仰への道  私達は、全てがわかってから(全てを信じることが出来てから)、信仰を持とうと考えがちです。けれども私達人間には、神様のことが全部わかり切るということはあり得ません。弟子達でさえ、ただ、従っただけでした。そして成長していきました。大切なことは、先ず、弟子達のように、イエス様を信じ従っていくという、主の呼びかけに答える決心をすることです。「イエス様(神様)に従いたい」との思いが心に芽生えたら(それを主の呼びかけと聞き)、神の家族となって歩み始めて良いのです。初めは臆病者といわれるような小さな信仰でも、イエス様は愛と忍耐をもって「なぜ怖がるのか」と、信仰の成長へと導いて下さいます。私達が強い信仰へと成長する為には、私達が本当の意味で「イエス様が神である」ことを知り、「イエス様が私の救い主である」ことを心から信じることです。その時に私達は溢れる喜びで満たされます。十字架を前に、イエス様を見捨てて逃げ去った弟子達が、復活されたイエス様と出会い、その復活の力にあずかり、聖霊をいただくことによって大きく変えられたように、私達も又、イエス様の復活の力にあずかり、聖霊の導きと助けをいただきましょう。そして、主のご期待に答えるべく、互いに励まし合って、信仰を強め、主を頭(かしら)とする一つの体としての教会に、益々なっていけるように努めましょう。