「神に栄光を帰する」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 19編2-5b節 2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。 3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。 4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても 5a その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。 5b そこに、神は太陽の幕屋を設けられた /n[使徒言行録] 12章20-25節 20 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。 21 定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、 22 集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。 23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。 24 神の言葉はますます栄え、広がって行った。 25 バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。 /nはじめに  使徒言行録は、イエス様の福音宣教のご命令がどのように弟子達によって果たされ、福音が拡がっていったのかを伝えている書物です。使徒言行録の主役は、常に、福音宣教を導かれる神であり、イエス・キリストであり、聖霊です。しかし今日の使徒言行録の20節から23節は、イエス様の弟子であるヤコブを殺し、続いてペトロをも殺そうとしたヘロデ・アグリッパ王一世の最後について書かれています。これは非常にめずらしいことであると同時に、何か大切な意味が含まれているように思います。 /nヘロデと住民の利害関係  昔からフェニキア人が食料を規則的にパレスチナから輸入していたことが知られていますが、ここではおそらく経済問題のトラブルが両者の間にあったようです。そこで、困ったフェニキアの商人達が王の侍従を味方に引き入れ、王に和解を願い出たことで調停がうまくいったという背景があるようです。調印式が華々しく行われたその日、ヘロデ王は立派な王の式服を身につけ、王座から、王としての演説を行いました。自分の寛大さ、偉大さを印象づけようとする権力者の姿です。それに対してフェニキアの住民達は、演説するヘロデ王に「神の声だ、人間の声ではない」と叫び続けました。王から利益を受けることになった住民達は、王に対して「神」という言葉を与えてご機嫌をとったといえるでしょう。 /n人間を神とする  ヘロデ王はユダヤ教に改宗したユダヤの王ですから、神様については、不十分ながら知っていたはずです。けれども彼は、自分が神と言われることを良しとしました。そこに神様の裁きが入ったのです。聖書は「主の天使がヘロデを撃ち倒した」と記しています。その時か、あるいは直後なのか、「ヘロデは息絶え」ました。その死の理由を聖書は「神に栄光を帰さなかったからである」と記しています。 /n神に栄光を帰する  「神に栄光を帰する」とは、一言でいうならば、「神様を神様とする」ことです。神様を神様とするには、神様を正しく知らなければなりません。子供達に信仰を教え、導く本の中に「ジュネ-ヴ教会信仰問答」があります。この信仰問答は「人生の主な目的は何ですか。」から始まります。答は「神を知ることです。」とあり、第二の問い「どんな理由であなたはそういうのですか。」の答えに「神は私達の中にあがめられるために私達をつくり、世に住まわせたのですから、又、神は私達の生の源ですから、私達の生を神の栄光に帰着させるのはまことに当然です。」とあります。 このように、私達人間が、神様を自分の命の源として、神様を崇めるためにこの地上に存在しているということを知るならば、神様をあがめずにはおられなくなり、神様を崇めることを通して更に神様を知るようになっていきます。 /n神様を知る >> 「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩編19編)、「目を上げて私は山々を仰ぐ。私の助けはどこからくるのか。私の助けは来る。天地を造られた主のもとから。」(詩編121編) <<  聖書は常に、神様がどういうお方かを伝えています。弟子達の宣教活動を伝える使徒言行録にヘロデ王の最後が記されているのは、あらゆる形の(王であれ皇帝であれ)人間の神格化に対する拒否であり、神様からの警告です。私達は毎週日曜日、神様から招きを受け、礼拝をおささげする為に集います。礼拝は、神様を崇め、讃美する何よりも大切な時間と空間です。クリスチャンの勤めであり喜びです。この一年も「静まって私こそ神であることを知れ」(年間聖句)との御言葉のもとに、神様を真の神様として崇め、全ての栄光を神様に帰する歩みをしていきたいと願うものです。