「アダムとエバと私たち」 元東北学院 院長 倉松功先生

/n[創世記] 3章1―13節、16―19節 3:1―13 1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」 3:16―19 16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」 17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。 19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」 /n[ローマの信徒への手紙] 7章15―20節 15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 /nはじめに  創世記一章の26節から28節にかけて、大変、重要な記事があります 「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」そして、この人間以外のもの、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うもの全てを支配し、治めと命じられました。人間が神にかたどり、似せて創られたことは、ユダヤ教やキリスト教が主張する「人間の尊厳」の根拠となっています。更に、人間以外のものを支配させようとの人間に対する支配の委託・命令は、「人間の尊厳」を強く固くしていると言えるでしょう。 /n創世記三章  ところが第三章では一転して、そのような人間が罪を犯し、罪に陥ることが記されています。最後の所で「(主なる神は)こうしてアダムを追放し」(24節)とあります。この追放というのは、アダムとエバが神に背いたということ、罪に陥ったという言い方も出来るでしょう。神に似せて神にかたどって創られ、人間以外のものを支配させようといわれたその人間が、神に背いて追放されるというのが、三章の内容です。  ご存知のように、イギリスの17世紀の詩人であるジョン・ミルトンが、失楽園(パラダイス・ロスト)という題で長い詩を書き、それにより、ここが失楽園と呼ばれるようになりました。人間が罪に陥り、楽園を追放されたその理由は何であったかということが、一つの問題点であると思います。 /n追放された理由  二つの理由が記されています。一つは、善悪を知る知恵の木の実を食べたからであること、もう一つは、神が取って食べるなといわれた木の実を食べたからということです。善悪を知る知恵の木の実を食べた。食べるなといわれたものを食べた。それで楽園を追放された、あるいは罪に陥る始まりだった・・なぜ知恵の木の実を食べて、罪に陥ることになったのか。 /n善悪を知る  幼稚園から大学-生涯、知恵の木の実を食べる、善悪を知ることは大事で、人間にとって最も必要なことです。現代社会において幅広い教養が必要であるし、更に、善悪を教え、善悪を知るということは重要です。 /n「それを食べると、目が開け、神のように・・なる」(1:4)  なぜそれを食べたのが悪かったかということは分かりにくいのですが、考えて見ますと「これを知ると神のようになる」との言葉が重要だと思います。人間は知恵が深まり知識が増え、善悪を知るようになったことによって、人間の世界・社会が、神のように何でも出来る、何でも行なう、いろいろなことをする。そういうことから危険をはらんでいく・・そういうことを含めているのかと想像します。いずれにしても、なぜ知恵の木の実を食べてはいけなかったのかということは、一つの問いとして残るように思います。それに対して、食べるなと言われた禁止命令に背いたと。これはもっと単純で分かりやすいように思います。 /n楽園追放の二つの理由  この話を主題としたミルトンの「失楽園」という詩の中では、食べるなと言った神の命令があることを知りながら、食べる方を選んだ「自由意志」を問題にしています。これを選んでこれを選ばない・・。これは人間の自由意志です。その選択の自由意志、これを問題にしています。ミルトンは、人間が自ら自由に神の命令に反することを選択した。ここに罪の原因があるというわけです。ミルトンによりますと、神に似せて造られた人間は、神について、あるいは善とか義とか、神の定めた律法について充分に知っていました。しかしそれを知っている理性に人間の意志は従わなかった。選ばなかった。これを問題にしています。そして私共は、ミルトンよりはるか前に使徒パウロが、人間の自由意志について、選択の意志について、同じようなことを語っているのを知っています。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ロマ7・18-)。パウロはさらに続けて「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(同24節)と嘆いているのです。このパウロの自由意志の無力についての嘆きを、宗教改革者ルターは「不自由な奴隷的意志」と呼んでいます。 /n神に感謝する  しかしパウロもルターもこの嘆きを覚えながら、キリストによる救いを与えて下さった神に感謝しているのです。「私達の主イエス・キリストを通して神に感謝しています」(25節)。自分の罪に嘆くその中で、パウロは神に感謝しています。ルターについて言えば、この奴隷意志・・意志が奴隷的だといった文章はルターの代表的な著作の一つになっています。一方では、人間の意志の奴隷的な性格を言いながら、他方では、神と人間が協力して、この世界を導いていくという思想を展開しています。パウロもルターも、選択の自由意志の罪ということを問題にしながら、しかし同時に救いを語っております。 /n選択の自由の限界  そのパウロやルターの時代よりも、17世紀のミルトンの時代よりも今日の私達の知識は豊かになり、情報が複雑、多様になり、善悪についても広く知るようになっています。それだけ私達の意志の選択が難しくなっている面があります。その難しさはとりわけ、企業や所属団体、国の内外の社会問題や政治問題における、善と悪・正と不正に見られます。しかし人間関係、宗教や信仰の問題において、あるいは人間の生活に関する局面において、パウロと私達とはあまり変わっているとはいえません。善意と悪意、愛と憎しみ、謙遜と高慢、何よりも自分自身の方に曲がっている自己愛・我欲などは、今日も聖書の時代と変わっているとはいえません。そうした日常生活の実態に目を向けますと、選択の自由の限界は明らかです。さらに選択の自由の不自由のみならず、欲する善を行なわない自由意志はどうなるのでしょうか。神はそのような私達の救いの為に、キリストを与えて下さっていることを私共は思わずにはおれません。それと共に、欲する善を行わずにいる生活に、救い、赦し、癒しがないとすれば、私達はどうなることでしょう。神の赦し、救いがないままで、自由意志の動くままに、自分の選びたいものを選んでいることになれば、知らないうちに心は荒廃し、神を畏れることもなくなるでしょう。私達はパウロと共に、神に感謝する生活を歩まなければならない、歩みたいと思います。そういう生活を与えられていることに感謝したいと思います。これが一つです。 /n悪の起源  もう一つ、ここで明らかにしておきたいのは、「自分の欲する善を行わず、望まない悪を行う」人間が、なぜ神によって造られたのか、です。悪の起源についての人間の問いは昔からあり、神は人間を創造する時、悪を行わず神に従って善を行うような意志をもつ人間を造るべきではなかったかという問いです。その問いに対する答えは長い歴史があります。結論だけを申しますと、例えば20世紀に出現したスターリンやヒトラーの全体主義の国家がしたように、いかなる反論も許さない。政治・信教・結社の自由がない人形のような人間と社会を、神は欲しなかった、ということがいえると思います。まさに人間に与えた自由意志によって、神は人間に尊厳を与えたのではないでしょうか。人間に選択の自由意志を与えることによって、初めて個性、その人自身の人格などが与えられたのではないかと思います。神が一律にスターリンやヒットラーのように、神の命令に一斉に従い、一斉になびくような、選択の自由意志のない人間を造ったとすれば、これこそ大変な社会-人形の社会になったと思います。選択の自由意志を持つ人間として造られたことは、そこに良心の自由、自由意志があり、それによって人間の尊厳、私自身の性格・特性・人格など・・が与えられていると見ることが出来ます。 /n救う自由はない  ただ、この自由意志は、選ぶことは出来ますが(善悪について)、自分の救いについて、救いを選び出す自由は持っていません。ですから選択の自由を誤った時は、心が荒廃し、神を畏れなくなりますが、しかしそれを救う自由というのは私共にはない。これがルターのいう「奴隷的」ということです。他方、今日の世界は、この「救いの自由」ではなく、人間の尊厳と選択の自由、信教の自由、結社の自由、良心の自由、それぞれの理由に基づいて、教会を作り、又、自分達に必要な団体を作っていくという事柄は、今日の世界文明の共通の価値になっています。それだけにアダムとエバに与えられていた「意志の選択の自由」という問題は今日も重要であるといえます。 /nアダムとエバへの罰則  第一の罰はへびに与えられました。蛇が人間に嫌われ、呪われるものとなっていることは、古代も今日も一般的なことかもしれません。第二の罰はエバに与えられたものです。女性の出産の苦しみと、男性に従えという男性への従属性です。女性の男性への従属性が罰となっている一つの起源は、創世記2章の、男を助ける者として、男のあばら骨の一部を抜き取って女を造ったという箇所によるでしょう。新約聖書でパウロは「女の頭は男。男は神の姿と栄光を映す者。女は男の栄光を映す者。」(1コリント11:3・7)と言っています。そのパウロが「主においては、男なしには女なく、女なしには男はない」と言っています。「キリストにおいて」ということによって価値の転換を言っているのです。 第三の罰は、男に対して、食べ物を得ようとして苦しむ。汗を流してパンを得る。労働の苦しみが神の命令に違反した罰として描かれます。日本を代表する新聞のフランス特派員が、フランス人のキリスト教徒は、労働は罪の罰だと捉えて、働くことをマイナスイメージで考えているとの報告を読んだことがあります。それはここからきているのでしょう。 /n新約聖書では・・  パウロは「働きたくないものは、食べてはならない」(2テサロニケ3:10)と語っています。東北を代表する思想家の一人、安藤昌益は「耕さざるもの、食うべからず。」と言い、福沢諭吉が、裕福な家庭に生まれてもぶらぶら暮らして衣食するのは道理に反すると戒めています。パウロはそれに続けて「自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対しても品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」(1テサロニケ4:11-12)。つまり独立と品位を言っています。そして「労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」(エフェソ4:28)と言います。自分のお金で寄付し、困っている人を助けなさいというのです。パウロは働くことの意義を、1.働くことの尊さ 、2.独立と品位 、3.必要な援助、の三つをあげます。 /n神によって召しだされていることが天職  新約聖書では、働くことについて、結果を生む働きや職業ということだけでなく、それ以前に「一人の人間としてある」という意味で、天職(コーリング)と言っています。パウロはそれを「召された自分」(1コリント7:17)と呼んでいます。神が与えている使命、役割、それが「働く」ということにあるというのです。一人の人間が職業(定職につくかつかないかは別として)・・男であり、女であり、妻であり、夫であり、子供であり、両親である・・こういうことが、それ自体の中に神の召命、神の使命が与えられていることが、コリント第一の7章に記されています。 /n互いに仕えなさい  その上、人間のあり方として、自由を得るために、自由を与える為に、互いに仕えなさいと勧めています。一人一人のかけがえのない自由を、「奉仕する自由として用いなさい」が結論です。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」(ガラテヤ5:1)。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」(同13節)。 /nおわりに  失楽園の選択の自由意志の問題は、一人一人の人間の尊厳にかかわり、世界文明の価値です。他方この選択の自由は、欲しない悪を選ぶゆえに、赦しと救いを必要としています。 キリストによってそのような赦しと救いと、奉仕への自由という使命と課題を私共に与えて下さっています。そのことを覚えて、感謝しつつ、歩む者でありたいと思います。(文責:佐藤義子)