「信仰に踏みとどまる」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 121編1-8節 1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。 5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 6 太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。 7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。 8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。 /n[使徒言行録] 14章21-28節 21 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、 22 弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。 23 また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。 24 それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、 25 ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、 26 そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。 27 到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。 28 そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。 /nはじめに  今日の聖書には、パウロとバルナバがデルベという町で伝道し、多くの人々が信仰をもったこと、その後、これまで通って来た道を引き返しながら、今回の伝道により新しく出来たキリスト者の群れを訪問したこと、その後、自分達を送り出してくれたアンティオキアの教会に帰ってきたこと、そこで伝道の報告会をしたことなどが記されています。今日の聖書から、いくつかの言葉に注目してご一緒に学びたいと思います。 /n「引き返しながら」(21節)  これまで先に先にと進んできたパウロとバルナバでしたが、二人を送りだしたアンティオキア教会に戻るにあたり、デルベからその先のタルソス(パウロの故郷)を通って帰ることも可能でした。しかし彼らは石を投げつけられて逃げるように出てきたリストラの町や、暴力をふるわれそうになったイコニオンの町へ引き返すという、大変危険なコースを選びました。 /n「弟子達」(22節)  この「弟子達」とは、伝道によって新しくイエス・キリストの弟子とされた信者のことです。クリスチャンとは、言い換えればイエス・キリストの弟子になった人(弟子とされた人)のことです。復活されたイエス様は、弟子達に「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と言われました。伝道の目的は、すべての民をキリストの弟子とすることです。イエス・キリストを信じて従うことを願う人達が起こされること。そして弟子になること、それこそが、伝道の最終目的といえるでしょう。 /nイエス・キリストの弟子になること  イエス様は「<span style="font-weight:bold;">私は道であり、真理であり、命である。</span><span style="font-weight:bold;">私を通らなければ、誰も父のもとに行くことが出来ない</span>」と言われました(ヨハネ14:6)。イエス様を神の子と信じてイエス様に従う者(イエス・キリストの弟子)は、真理の道・光の道を歩くように導かれます。そして永遠の命を与えられ、父なる神様のもとに行くことが出来るのです。これが聖書の約束です。 /n「<span style="font-weight:bold;">信仰に踏みとどまる</span>」(22節)  パウロとバルナバは帰り道、新たにキリストの弟子とされた人達を力づけ励ましました。危険を冒してまで引き返したのは、このためでした。二人は「私達が神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と語りました。「多くの苦しみを経る」とはどういうことでしょうか。 外なる戦いには、反対者から受ける攻撃があります。キリスト教国でない日本では家庭の宗教ではないと家族から冷たい目をされたり、教会に行くことを反対されるケースは多く存在します。クリスチャンが嫁ぎ先で教会に行くことを認めてもらえないケースもあります。日曜出勤や町内・学校などの行事も多い中で、信仰生活・教会生活の継続のための戦い・労苦もあります。 さらに、内なる戦い、労苦もあります。私達の、生まれながらの肉の働きがあります。聖書では、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、などを挙げ、これらを持つ者は神の国を受け継ぐことはできないといっています(ガラテヤ5:19)。私達は肉体をもってこの地上に生き、人々の中で生活しており、この世のあらゆるものから影響を受けています。そのような中での「信仰生活の継続」は、苦しみ・戦いが伴います。イエス様は「<span style="font-weight:bold;">私についてきたいと思う者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。</span>」と言われました。 /n信仰は、火で精錬され、試練によって本物と証明される(一ペトロ1:7)  生きていく途上においては、さまざまな試練・労苦があります。しかし私達は信仰に踏みとどまらなければなりません。イエス様の弟子とされた者は、神の民として、この世に身を置きながら神様の支配のもとに生きています。私達が聖霊の導きによって生きる時、み霊の結ぶ実である「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の道を歩くことが出来ます。(同ガラテヤ)。私達はイエス様から目を離してはなりません。全生涯を通して自分に与えられる課題に向き合いながら、日々、イエス様の生ける命の水を飲むことで新しくされ、出発していきます。  後略。