説教要旨「礼拝と奉仕」 倉松功先生(元東北学院院長)

/n[詩編]95編1-7節 1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。 2 御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。 4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。 5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 /n[ヨハネによる福音書]4章21-26節 21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 /nはじめに  本日は、「礼拝」について聖書から学びたいと思います。 「礼拝」の本来的言い方は「礼拝と奉仕」ですが、日本にキリスト教が入ってきた時に、「礼拝」と訳してしまったということがあるようです。キリスト教の礼拝がどんなものか(どのようにあるべきか)について、主イエスご自身が非常に明確にお話されているのを、まず聖書の言葉で聞いてみたいと思います。 /n霊と真理をもって礼拝する  先ほど読んでいただいたヨハネによる福音書では、イエス様がサマリヤの女に会われて、「<span style="font-weight:bold;">霊と真理をもって礼拝しなければならない</span>」と言われました。「霊」と「真理」。これはすべて「キリスト」のことです。「聖霊」はキリストから出てまいります。「真理」はキリストが持っておられる。「真理」はキリストにおいて明らかにされたのです。「霊と真理をもって礼拝しなければならない」・・これは、キリストにおいて、キリストによって、礼拝する。これがキリスト教の礼拝であるということを、キリスト自身がおっしゃっていたということになります。 /nキリスト教の礼拝  もう一か所、礼拝について主イエスご自身が語られているところがあります。それは、マタイ福音書4章10節(ルカ福音書4:8)の、荒野の誘惑の最後、「<span style="font-weight:bold;">あなたの神である、主を拝み、ただ主に仕えよ。</span>」です。主を礼拝し、主に仕える。ここではっきりと、「礼拝」と「奉仕」という二つの言葉で礼拝の意味を明確に、明快に語っておられます。 /n旧約聖書の礼拝  礼拝が、神を拝み、神に奉仕する礼拝であるということは、旧約聖書からの伝統です。礼拝が、礼拝し、奉仕することであるということは、(ギリシャ語からへブル語に遡って調べていただいた結果)32箇所の記述があり、この32箇所の中に一箇所だけキリストが言われたことに似ています。31箇所はすべて、天地創造の主なる神以外の他の神、自然物、その他、偶像を礼拝したり、仕えてはならないという禁止や否定形です。ただ1箇所だけは、「あなた方は、自分の神以外を礼拝しない(=自分の神だけを礼拝する)。自分の神以外に仕えない(=自分の神だけに仕える)。」と、バビロン捕囚の時、ネブカドネツァルがユダヤ民族をほめています。これらが、旧約聖書における、礼拝し、奉仕するという言い方です。旧約聖書の、例えば十戒をみますと、「<span style="font-weight:bold;">父と母を敬え</span>」以外はすべて「すべからず」です。他の神々を拝んではならない。偶像を作ってはならない。盗んではならない、・・等です。このように、旧約聖書は否定的表現をしているのに対して、主イエスキリストの礼拝についての言われ方は、「主なる神を礼拝し、伏し拝み、それに仕える、奉仕する。これが礼拝である」と、積極的です。こういう違いがあるように思います。 /nワーシップサービス  主イエス・キリストご自身の「礼拝」を一番よく、忠実に表現しているのが英語です。ワーシップ サービス=Worship (礼拝する)Service(仕える)との表現が、礼拝と奉仕を十分伝えていると思います。では、誰を礼拝し、誰に奉仕するのでしょうか。「礼拝をする」「拝む」というのは、キリスト教においては、天地、宇宙を創造された主イエス・キリストの父なる神、主イエスキリスト、聖霊、の、三位一体なる神を拝むことです。この三位一体とは、実感としては分かりにくいかもしれません。ただ、キリストは、神として来られ、真理と霊を持って、と、言われる時に、「私において」「私を通して」とおっしゃったのですから、私共はキリストを通して、この三位一体の神を知ることができます。 /n礼拝する対象を知る  詩編95:5-6節には、主なる神にひれ伏し、伏し拝もうと記されています。キリストは、礼拝が天地創造主である主なる神を拝むという点で、継承しています。この天地創造の神、主なる神、キリスト御自身については、私達にどんなかかわりがあり、私達に何をなさった神なのか、まず聞かなければよくわかりません。礼拝において、神について、キリストについて聞き、礼拝するということを通してしか、私達は神について、キリストについて知ることが出来ません。実際、申命記(旧約聖書)では「イスラエルよ、聞け。」(5:1)という言葉で、集会(礼拝)が始まっています。イスラエルにおいても、神の言葉を聞くことによって礼拝がなされていることが分かります。従って私共も、礼拝において神を礼拝するという事柄は、その神がどういう神であるか、あるいはキリストがどういうことをなさったのか、私達にとってどういう意味があるのか、とにかく礼拝で聞かなければなりません。その場合、聞くといっても、それはまさに私自身の力の限りというよりも、私共がキリストについて学ぶ、キリストを通して学ぶ、その時まさに聖霊の助けを必要としているということをいつも祈らなければなりませんし、そのことを求めなければならないと思います。 /n礼拝がサービス  次に、礼拝がサービス(奉仕)である、ということですが、礼拝でどんな奉仕をするかということについて私共は戸惑うかもしれません。礼拝が神に対する奉仕である、キリストに対する奉仕であるということは、何を意味するか、ちょっと分からない感じがいたします。 しかし「<span style="font-weight:bold;">イスラエルよ、聞け。</span>」という言葉でイスラエル共同体の礼拝が始まっているように、そして私共も又、神がどういう神か、キリストがどういう神かを聞かなければならないように、「奉仕」が、「神の言葉を聴く」、「キリストに聴く」ということに関わっていると言わざる得ないように思います。そして聴くことにより、そこで語られている天地を創られた、父・子・聖霊なる三位一体なる神がどういうことをなさったか、また人間を創り、人間に対して、歴史に対して、どういう関わりを持っているか、を聴くことによって、私共は感謝の念をもってそれに同意し、それを受け入れるということがあるでしょう。 勿論、中にはすぐには受け入れられないこともあるでしょう。たとえば、神は人間に特別な使命<人間以外のものを治めよとの大変重要な、責任ある使命>を与えて下さったということ、或いはキリストが、山上の説教の中で、全く普通の平凡な漁師、お百姓、羊を飼っている人達に向かって「あなた方は、地の塩、世の光である」と言われました。これを聞いた人達はまさにびっくりしたと思います。しかし、一人一人が世の光・地の塩であるという事柄は、キリストによってしか語られなかった、人間に対する神の愛、キリストの愛の表現でしょう。私共がそれによって、どのような人間も、人間としての尊厳、尊さというものを知り、しかも一人ひとりが神様から特別な使命を与えられていること、他に代わることの出来ない使命をもっていることを「光」・「地の塩」という言葉から学ぶわけです。そして、そういうことを通して私共は喜ぶ、感謝をするということがあれば、それは神の言葉(聖書)に対する私共の応答、又は、聖書を私共が受け入れることになり、この「奉仕」という言葉と結びついているということになります。 要するに、その礼拝における奉仕というのは、神の言葉、キリストにおいて、キリストを通して、キリストの言葉を聞くことによって、神に感謝する。あるいはその言葉を通して、神を讃美するといいましょうか、そういうことが礼拝における奉仕であるといってよろしいと思います。 /n全生涯が奉仕  「奉仕する」ということは、礼拝における奉仕だけでは決してありません。パウロの言葉に「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ロマ書12:1)とあります。自分の体を神に献げる。これが理にかなった、合理的理性的な、神に対する奉仕であると言っています。つまり神に対する奉仕というのは、礼拝だけにかぎらない。全生涯が、日々の生活が、奉仕であるということを言っています。おそらく天地を創りました私達の神、キリストも又、それを願っていることでしょう。 神に対する奉仕というのは、全生涯の奉仕である。しかし、天地創造なさった神が人間にどのように仕えたか。キリストがどういう風に仕えたか、パウロが語っている聖書のことを少し、見てみたいと思います。 /n神の私達に対する愛  パウロはロマ書で「<span style="font-weight:bold;">私達すべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私達に賜わらないはずがありましょうか。</span>(8:32)」と語っています。 御子キリストを父なる神が遣わして下さった。これが神の私達に対する愛です。私達に奉仕をして下さった。愛する御子さえも私達に遣わして下さった、送って下さった。しかもその御子を私共の為に十字架におつけになった、とすれば、御子と一緒に全てのものを私達に賜らない筈があろうかと言っています。これは大変なことだと思います。 ルターはある時に、死の予感がしたのかもしれませんが、死後の自分は次のようなことを告白するという文章を残しています。 「聖書の神は全てのものを与えて下さる神だと自分は告白する」。 これは、このパウロの言葉に倣っているからでしょう。 /n私達の奉仕の前に・・  キリストご自身も、「<span style="font-weight:bold;">あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられる為ではなく仕える為に、また、多くの人の身代金(多くの人の生命を買い取る購入代金)として自分の命を献げるために来たのと同じように。</span>」(マタイ20:26-28)と、弟子達に語られました。つまり、あなた方は奉仕する者、奴隷になり、全ての人の僕にならなければならない。なりなさい。私が来たのは仕えられる為ではなく仕える為に、多くの人の命を買い取る代金として、自分の命を献げる為にきたと言われます。 私共の命を買い取る為に来た。買い取るというのは悪魔から買い取ると考えても良いし、罪からあがなうと理解しても良いでしょう。又、私共の命を「真の命」とする為に買い取る、その為に自分の命を献げる、そこまで自分は仕える、奉仕するとおっしゃっているのです。 このことは礼拝において、まさにこの天地創造の父なる神、主なる神の言葉を聞くわけです。この父なる神と主イエス・キリストの奉仕に基づいて、私共の奉仕はどうあるべきだと考えられるでしょうか。 考えて見ますと、私共の全生涯がこの父なる神とこのキリストの奉仕に従うものであるということは、ある意味で大変な祝福であり、大変な恵みの言葉ではないかと思います。キリスト者の全生涯、職業生活、日常生活、家庭生活、それらは全てが神への奉仕、キリストへの奉仕、すなわち礼拝の延長、礼拝に準ずるものだと聖書は言っており、それを特にプロテスタントの宗教改革者達は受け継いできました(職務召命論など)。 パウロはそのように、私共の日常生活が神の奉仕だということが最も合理的な理性的な礼拝だとロマ書12:1で言いましたが、実はそれは、当時の人々が動物や穀物などを神に捧げる(供物)、そういう礼拝に対する批判として語った言葉です。 /n万人祭司  最後に、宗教改革者のルターやカルヴァン、特にルターから、この日常的な礼拝と共に、奉仕するということで最も大事なことを教わっていると思います。それはペテロ第一の手紙(2:5,9)やヨハネ黙示録(1:5-6)にある、「万人祭司」という言葉です。キリストを信じる全ての者は、祭司である。神に仕える、奉仕する者であると言いました。それに基づきルターは祭司としての務めを七つ言っています。その内、一つは神に対する奉仕は神の言葉を伝えること、「伝道」です。牧師になって伝えることも含まれますが、私共一人一人が神の言葉を教え伝える、伝道するということが、日常生活における神に対する奉仕であるということです。もう一つ御紹介したいのは「執り成しの祈り」です。 他の人の為に、他の人の信仰の為に、他の人の苦しみの為に祈るという執り成しの祈りです。これは多分、私共が病床にある時も、或いは年齢が高じても出来る、最も大切な、誰にでも出来ることではないでしょか。 /n礼拝から礼拝へ  私共の生活はまず礼拝です。礼拝から始まります。しかしこの礼拝は日常生活における礼拝へと展開し、そして又、礼拝に帰ってきます。これは私共に与えられている、大変恵まれた信仰生活ではないかと、神様に対する感謝を覚えるものであります。