「新しく造り変えられる」 西谷幸介先生(青山学院大学)

/n[コリントの信徒への手紙二]5章17節 17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 /n[コリントの信徒への手紙二]3章17-18節 17 ここでいう主とは、““霊””のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。 18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。 /nはじめに  皆さん!今の自分でいいのでしょうか?  これは誰もが自分と向き合い心の奥底で自問する時に、絶えず発せざるを得ない問いです。学生さんで言えば、「とりあえずは家族に守られている。親から愛してもらい、経済的にも何とか支えられている。だから今の自分で問題はない」。働いておられる方で言えば「職場も何とか無事だ。上司や同僚とも適当にうまくやれているし、部下も何とかリード出来ている。家族もそこそこに幸せに暮らしている。だから今の私の在り方で良いはずだ。」・・と感じておられるかもしれません。しかしそのように何とはなしの確認でごまかしがきかないのが、生身の人間としての「私」という人間です。本当にこれで良いのか?と、深く自分に問うている私がいます。 /n私の告白  私自身も過日、家族と会話をしながら、自分自身の「父親」としての在り方について深く反省させられる言葉を受けました。この年になり、なおしようがないと半分居直り気分で苦笑いしながら聞いていましたが、しかしそれでは済まない自分自身がそこにいることも感じました。この年にこんな言われ方をしなければならない自分自身の人間として又、キリスト教徒としてのあり方・・。その根本においてどこか本筋からずれているところがあるのではないかと思わされました。もう一度洗礼を受け直すことは出来ませんが、日々これではいけない、出来れば変わりたい、いや、ここはどうしても変えなければいけないというのが自分で分かっている。そのことを先ず、私自身が告白をしてお伝えしておきます。 /n新たに変わる  この礼拝で改めて申し上げたいのは、キリスト教は、人は神様から人を生かし造り変える霊の力、御霊(みたま)の力をいただいており、そのことによって自分自身が新たに生まれ変わっていくことが出来るし、又そうでなければならないし、又そのことが許されていることを伝える宗教であることです。  そのことを集約した聖書が、最初に読んでいただいたコリントの手紙二、5:17「だから、キリストと結ばれる人は、誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。口語訳では、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎさった、見よ、すべてが新しくなったのである」です。キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造された(る)ものなのです。 /n「新しく造られた」  「新しく」と言われる言葉には、あるニュアンスが込められています。新約聖書原語のギリシャ語では「新しい」という言葉には二つあって、一つは「ネオス」、もう一つは「カイノス」といいます。「ネオス」は英語ではニュー(new)という言葉で受け継がれています。  ニューとは、例えば古いテレビをデジタル放送用の新しい機種に変えるなど、新品に取り換えるというような時、使います。ここでの「新しく」は「カイノス」が使われています。それを表わす英語は「フレッシュ」(fresh)です。著者の使徒パウロは、コリントの教会の人々に向かって「誰でもキリストにあるならば、その人はフレッシュに造り変えられるものです。古いものであっても、見なさい、すべてフレッシュになる存在に変わっていくことができるのです。」との言葉を発したのです。  「ニュー」は古いものから新しい違ったものに取り換えるという意味合いが強いのに対して「フレッシュ」は同じものであるのに、古い状態から新鮮な、真新しい状態に変えられるということを意味します。 /n新しいものへの恐怖  私達人間には、多かれ少なかれ、新しいものに対する恐怖心や、おっくうさや嫌悪感というものが潜んでいます。古いもので慣れ親しんできたものの方を心地良いという感覚、態度があります。しかし古いものに留まるという状態が、それにしがみついて離れられないというところまでいきますと、又、多くの弊害が生じてきます。精神医学では、新奇性恐怖症というのがあって、新しいものに全く対応できない病気として確認されています。それを乗り越えさせる根本的な治癒の力としては、人間は新しく変わることが出来るし、変わって良いのだ、そういう認識があるのだ・・そのように思うことが出来れば乗り越えられます。とにかく、人間は「新しく変わり得る」ということへの無知が、啓蒙(けいもう)されなければならないと思います。 /n古い状態(幼虫)から新しい状態(成虫)への変化  人間が造り変えられる、「カイノス」(フレッシュ)ということをしっかり教えてくれるのは、コリントの手紙二の3:18です。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」。  ここで「造り変えられていく」というギリシャ語は「メタモルフォーメタ」という言葉です。小学校か中学校の頃、理科の時間に昆虫の変体ということを勉強してメタモルフォーゼ(ドイツ語)という言葉を習いました。その動詞が「メタモルフォーメタ」です。  神様の、霊の力を受けて人間が新しく造り変えられるという時に、今迄の自分とは異なる、ニューなものに取り換えられるというのではなくて、この同じ私が、古い状態から全くフレッシュな状態に変えられていくことを示しています。昆虫が成虫になった姿、幼虫の時の姿とは、とても似つかないほど変化(変体)します。メタモルフォーゼをやり遂げるのです。しかし、神様にいただいた元々の命はそのまま同じものです。 /n日本人の感覚  日本人がキリスト教になかなかなじめないという理由の一つに、キリスト教自体がまだ外国の宗教というイメージで、何となくおっかないという感覚があるかと思います。しかしそれ以上に、キリスト教に入信すると、あまりにも突然、自分が自分でない者にさせられてしまうのではないか・・。そういう感覚が日本人の中にあるのではないかと思います。自分離れ、人間離れ、日本人離れにさせられてしまうのではないか、という恐怖感につきまとわれていることがあるのではないかと思います。  教会で40年以上、キリスト教大学では30年近く、学生・教職員を含めた未信者の方々に接してきて、日本人はそういうイメージが強いのではないかと思わされました。しかしキリスト教の教えは決してそのように怖がらせるものではないことをご理解いただきたいと思います。 /nキリスト教は「接ぎ木型」宗教  聖書にありましたように、私達は「自分である」ということを失うことなく、それでも、その自分が新しく造り変えられていくということが約束されている。変わっていってよい、と許されている。それを言う宗教がキリスト教です。しかもそれは突然の変身ではなく、ゆっくりとした変化や成長でも良い。その意味で日本人にとっては、キリスト教は「根こそぎ取り換え型」の宗教ではなくて、「接ぎ木型」の宗教だと言ってよいかと思います。日本人であれ何人であれ、その人が培ってきた良い人間性が、神様に繋がった後も祝福され、キリスト教信仰の中に受け止められて生かされていくのです。 /n新生  私は青山学院に繋がることになりましたが、青山学院はメソジストと呼ばれるキリスト教の流れにあり、その流れを切り開いたのがイギリス人牧師ジョン・ウェスレーです。実は、私自身がこのウェスレーが強調した「新生」「新しく生まれ変わる」を強調したアメリカの福音的な宣教師の先生から洗礼を受けました。そのウェスレー自身が「新生というのは短い時間に起こる第一の大切な神様の業であって、その後、信じた者が神様によって聖化、清められていく過程は、徐々に魂の中で行われていく全身的な業である」(新生は神様がその人にさっと与えてくれる新しい変化だが、清められていく過程は、徐々にゆっくりでよろしい)と言っています。 /n「主と同じ姿に・・」  コリントの手紙二の3:18に、私達は造り変えられていくけれども、その目標、お手本に、主イエス・キリストのお姿があると述べられています。「私達は・・主と同じ姿に造り変えられていきます。」 ここが難しいと思います。  私は洗礼を受けて40年以上、按手礼を受けて牧師になって30年以上になりますが、先ほど申しましたように家族から意見されてぐうの音も出ない。深く反省させられるのは、私達が造り変えられ得るその先にある理想の姿、主イエスと同じ姿がそこにあるからぐうの音も出ない。私達の現実の姿は、この主イエス・キリストから何とかけ離れているのでしょうか。 /n主イエス・キリスト  主イエスは愛の人であられました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15:13)とおっしゃって、これを文字通り実践して下さり、私達罪人を友として、その罪からの救いの為に、その贖いの為に自らの命を投げ出して下さった方であられました。  生身の人間である私達が、この愛を行うことがいかに不可能であるか私達は知っています。人間はいかに罪深い者か・・どんなにそれを語っても語り切れません。そういう現実があります。しかし主イエスのお姿と私達の落差にばかり気をとられて、ため息をつくばかりでは、神様が望んでおられる生き方ではないのです。  変えられることに怯み(ひるみ)、変えられることを怠ることは、やめなければいけないのです。今、私に出来ることから始める。たとえば、私の周りにいる、私が気になっている人への態度を変える。思いやりを持つ。いつもその人に投げかけている言葉使いを変えてみる。そういうことから始めなければいけない。確かに、十字架の死に至るまで罪人への愛を貫徹された主イエスと同じ姿に変えられていくということは至難の業です。しかしそれでも尚、私達はその姿を目標に、それに一歩でも近づくように神様の、その霊の力によって変えられたい、変えていただきたいと祈りたいと思いますし、ほんのちょっとした変更を加えていくことをしたいと思うのです。  それが神様の私達への恵みのお招きであるからです。この恵みのお招きは、立場・年齢にかかわらず、一切区別・差別はありません。  相当な年齢であったはずのユダヤの国会議員ニコデモが、「年寄りがどうして生まれ変われましょう。」と言った時に、主イエスの返事は、「『人は、新たに生まれねばならない』と言ったことに驚いてはならない。」「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と、言われました(ヨハネ福音書3章)。 /n未見(みけん)の我  岡山の聖心女子大学学長をされたシスターの渡辺和子先生の文章の中に「80歳を越えました。それでも尚、私は日々、未見の我が現れるのを日々楽しみにして生きている」とありました。年齢に拘わらず、未だかつて見たことのない自分への期待を持つというわけです。これこそ「神様の御霊の働きへの、キリスト教徒の信仰」ということになるかと思います。この、新しい生き方への希求、そういう望み、これは個人の範囲にとどまるものではなく、その個人を取り巻く周囲にも広がるものです。一人が変われば周りも変わる。  ウェスレーは、「キリスト教は社会的宗教である」といいましたが、社会活動するということだけではなくて、一人が変われば周りも変わっていく。そうして社会全体がキリスト教的に良い方向に造り変えられていくことを彼は望んだのです。  自分でありながら、今までの自分になかったような新しいものが自分の中から現れてくる。そしてそれは人を喜ばせ、神様にも喜んでいただける。だからつい自分も楽しくなる。嬉しくなる。こういう人間の救いの経験を私達は味わわせていただかなければならないと思います。 /n「これは主の霊の働きによることです」(3:18)。  神様の霊の働きを受けるということは、そういうことが可能になる、許されている、ということをウェスレーは強調したわけです。 かつて銀座教会で牧会された旧約学者の渡辺善太先生が「今の俺 俺は俺でも この俺は キリスト知りし後の 俺でない俺」と歌いました。私達は、変わることに躊躇してはいけない。周りの人が驚いても、そんなことに躊躇してはいけない。変わるべくして、変わっているのです。  幼虫が成虫に変わる時に、今迄と全然違う形になるように、そういう鮮やかな変身をとげることが許されている、ということがキリスト教の福音のメッセージだということを覚えていただきたいと思います。