「神の御心ならば」  牧師 佐藤義子

/n[箴言]3章5-8節 5 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 6 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。 7 自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。 8 そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり/あなたの骨は潤されるであろう。 /n[使徒言行録]18章12-23節 12 ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、 13 「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言った。 14 パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、 15 問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」 16 そして、彼らを法廷から追い出した。 17 すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。 18 パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。 19 一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。 20 人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、 21 「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。 22 カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。 23 パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。 /nはじめに  日本キリスト教団は、毎年8月の第一日曜日を平和聖日と定めています。イエス様が語られた言葉に、「<span style="font-weight:bold;">平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる</span>」。(口語訳では、「<span style="font-weight:bold;">平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。</span>」)があります。使徒言行録10章には、「<span style="font-weight:bold;">神がイエス・キリストによって平和を告げ知らせる</span>」とあります。  多くの人々は、戦争さえなくなれば平和が来ると信じています。しかし、たとえ戦争がなくなったとしても、イエス・キリストの福音を知らず、愛も赦しも存在しないところには、真の平和はやってきません。私達人間は、長い間、善悪を知りながら、神様に不従順を繰り返す、神様に敵対する存在でした。その関係を打ち破ったのがイエス様です。何の罪をも犯さなかった神の御子・イエス様が、十字架の死をもって全ての人の罪を神の前につぐなったのです。それにより私達は神様から赦しが与えられ、神様との間に平和の道が備えられました。私達の罪の為にイエス様が十字架上で死なれ血を流された、その大きな愛を知る時に、私達は悔い改めへと導かれます。そして死からよみがえり、死に勝利されたイエス様を信じて歩む時に、神様から来る、真の平和の道を歩くことができるようになります。  この平和の道を歩んだ聖フランシスの祈りをご紹介します。 ________________________________________________________________________________ 「<span style="font-weight:bold;">素朴な祈り(原題)</span>」 (訳:RUSTICO) おお主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。   憎しみのあるところに、愛を持って行かせて下さい。   争いのあるところに、ゆるしを持って行かせて下さい。   分裂のあるところに、一致を持って行かせて下さい。   疑いのあるところに、信仰を持って行かせて下さい。   誤りのあるところに、真理を持って行かせて下さい。   失望のあるところに、希望を持って行かせて下さい。   悲しみのあるところに、喜びを持って行かせて下さい。   闇のあるところに、光を持って行かせて下さい。 おお主よ、私が多くを求めないようにしてください。   慰められるより、慰めることを、   わかってもらうことより、わかることを、   愛されるより、愛することを(求めさせて下さい)。 与えるからこそ、与えられ、   ゆるすからこそ、ゆるされ、   死ぬからこそ、永遠の生命によみがえるのですから。 __________________________________________________________________________ /n訴えられたパウロ  今日の聖書は、始めに、「イエスこそ救い主である」と伝道するパウロに対して、ユダヤ人達が「キリスト教は律法に違反する仕方で人々に教えている」と法廷に訴えた出来事が記されています。ところがパウロが弁明しようとした時、ローマ総督ガリオンは、この訴えが、ユダヤ教内部の教えに関するものであることを見抜き(ローマ法では、国家は宗教に介入しない)、即座に却下してユダヤ人達を法廷から追い出しました。この少し前で(9節)、主がパウロに幻で「<span style="font-weight:bold;">恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だからあなたを襲って危害を加える者はない。</span>」と語られましたが、そのことがここで実現しています。 /n誓願  パウロは、コリントからの帰国の旅の途中で、髪を切りました(18節)。パウロは誓願を立てていたとありますので、これは期限付きの「ナジル人の誓願」と思われます(民数記6章)。特別な誓願を立てる者は、期間中、ブドウ酒も濃い酒も飲まず、頭にかみそりをあててはならないと定められていますので、髪を切ったのは、その期間が終わった為と思われます。パウロは、キリスト者は律法から自由にされていることを語っています。しかし同時に、律法に従うことが、福音の躓きにならない限り、彼はユダヤ人キリスト者としてユダヤ人が守って来た慣習と秩序に従ったことをここで見ます。「<span style="font-weight:bold;">私は誰に対しても自由な者ですが、全ての人の奴隷になりました。ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。</span>」(一コリント9:20) /n神の御心ならば  パウロが、旅の最後にエフェソに立ち寄った時、人々から「もうしばらく滞在してほしい」と懇願されました。が、パウロはそれを断り、「<span style="font-weight:bold;">神の御心ならば</span>、また戻ってきます」と言って別れを告げました。ヤコブ書に「あなた方は<span style="font-weight:bold;">『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』</span>というべきです」とあり、ロマ書12章には「<span style="font-weight:bold;">何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい</span>」と命じています。  神の御心を知る為には、何よりも神様の言葉である「聖書」を、礼拝を通して聴き、又、家庭で繰り返し、繰り返し読むことと、そして祈ることです。自分の思いを優先させるのでなく、まず、神様の御心を第一に問い、御心に従う歩みをさせていただきたいとねがうものです。