「神の言葉と人間の言い伝え」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]29章13-16節 13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。 14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」 15 災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。 16 お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか/「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか/「彼には分別がない」と。 /n[マルコによる福音書]7章1-23節 1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、 12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」 14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 16 *聞く耳のある者は聞きなさい。 17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。 18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 /nはじめに  今日の聖書は、当時、イスラエル社会で尊敬されていたファリサイ派と律法学者達が、イエス様の弟子達のあり方を見て、イエス様が、間違った教えを説いているとし、糾弾しようと質問したところから始まります。イエス様は彼らの質問に対して、旧約聖書の「イザヤ書」や「十戒」を取り上げながら、彼らの根本的な間違いを指摘しました。  ファリサイ派達は、自分達を「選民・イスラエル」の民として「聖さ(きよさ)」を重視する余り、宗教上の儀式だけでなく日常生活にまで細かい規定を作り、それを「昔の人の言い伝え」として人々にも守るよう求めていました。しかしイエス様は、その「言い伝え」を守っている彼らの心は、旧約聖書の精神から離れ、もはや神様の御心に従うものではなくなっていることを見抜かれ、「<span style="font-weight:bold;">あなた達は自分の言い伝えを大事にして、よくも神のおきてをないがしろにしたものである。</span>」(9節)「<span style="font-weight:bold;">あなた達は、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。</span>」(13節)と言われました。 /n「<span style="font-weight:bold;">人から出て来るものこそ、人を汚す</span>」  それから、イエス様は再び群衆を呼び寄せて、新しい「神様の言葉」を教えられました。それは「<span style="font-weight:bold;">外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。</span>」(15節)です。群衆と別れた後、弟子達はこのたとえの意味についてイエス様に尋ねました。イエス様は、人の体に入るものとは「食べ物」であり、それらは心に入らず、お腹を通って外に出されるゆえに、「食べ物は」清められる。それに対して、人から出て来るものは人を汚す。それは、人の中から、人間の心から、悪い思いが出てきて、悪い行ないを引き起こして人を汚すと教えられました(19節)。 /n清いものと汚れたもの  イスラエルの人々には、食べてよい物(清い物)と、食べてはいけない物(汚れた物)の区別が明確に規定されていました。(参照:レビ記11章)。彼らは自分を清く保つ為に、清くないものと言われるものは口にしませんでした。それに対してイエス様は、「口から入るものはどんなものでも全て外に出される。だから、食べ物によって人が汚れるということはない」と教えられ、他方、「人の中から出てくる悪い思いや、さまざまの悪徳こそが人に悪の働きをさせ、人を汚すものである」ことを教えられたのです。<悪のリストについては、ロマ書1:29-、ガラテヤ書5:19-、一テモテ書1:9-、二テモテ書3:2-など参照>。 /n私達へのメッセージ  今日の聖書に登場したファリサイ派や律法学者達と、現代の私達が陥りやすい共通点は何でしょうか? それは「信仰の形骸化」、形式主義です。日曜日の礼拝を例として考えてみましょう。  日曜日に教会に集い、礼拝を捧げる本来の目的は、創造主であり、私達に命を与え、生かして下さっている神様を賛美し、御名をほめたたえることです。一週間の歩みが守られたことを感謝し、ざんげの祈りをささげることでイエス様の贖いによって罪を赦していただいたことを確認し、更に御言葉によって神様につながっている喜び、仕える喜びを与えられ、さらには兄弟姉妹たちと共に一つにされて、真理と霊によって神様を礼拝することが許されているという喜びを実感することです。  神様を求める者にとっては、礼拝が神様との出会いの場でもあります。御言葉を通して今も生きて働いておられる神様から力をいただき、神様を知らない人々に、広く伝えていく励ましを与えられる時でもあります。  もし、形式主義に陥り「日曜日に教会(礼拝)に、行きさえすればそれで良し」と満足してしまうならば、そこには礼拝する目的が見失われ、喜びも感謝もないまま礼拝行為が形式化され、形式的な礼拝が続く時に、ファリサイ派や律法学者のように、神様の御心から遠く離れて、神様中心ではなく、勝手な理屈を並べて人間中心に、罪へと陥っていくのです。心から喜びと感謝をもって礼拝に集う為に、日々の生活を始める前に、まず神様の御声(聖書)を聴き、祈る時間と空間を持ち、又、神様を知らなかった過去の自分を思い起こし、今の自分を感謝したいと思います。