「神の愛とわたしたちの愛」 倉松功先生(元東北学院)

/n[出エジプト記]20章1-3節、13-17節 1 神はこれらすべての言葉を告げられた。 2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。 3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 13 殺してはならない。 14 姦淫してはならない。 15 盗んではならない。 16 隣人に関して偽証してはならない。 17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」 /n[ヨハネの手紙一]4章7-12節 7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。 /nはじめに  宗教改革から150年を経た1667年に、10月31日を宗教改革の記念日とすることを、ドイツとスイスとフランスのプロテスタント諸教会、及びアメリカの教会(その時点ではルーテル教会)が加わり、決めました。それは、1517年10月31日に、最初の宗教改革者(といってよい)ルターが、95ヶ条の提題(論題)を、ヴィッテンベルク城教会 の扉に掲げ、このことによって宗教改革の運動が起こったからです。この95か条の提題は二週間以内にドイツ全体に広まり、更に、ヨーロッパに広がっていきました。この提題をめぐりさまざまな論争、討論が起こり、ルター自身は四年後に当時の神聖ローマ帝国から追放されます。 ルターが95か条の提題を掲げた翌年5月、ルターが語った「神の愛と人間の愛」についての討論会での言葉を手がかりにして、今朝は、「神の愛と私達の愛」という説教題のもとで、ご一緒に聖書のメッセージを聞きたいと思います。 /n「<span style="font-weight:bold;">ここに愛があります。</span>」(10節)  先ほど読んでいただいた聖書の中に「<span style="font-weight:bold;">ここに神の愛がある</span>」という言葉がありました。「ここに神の愛がある」というのは大変な聖書のメッセージです。「ここに愛がある」。たった短い一言がここに書かれています。それは、「神は、その独り子キリストを、私達のところに遣わされた」、「そして私達の罪のいけにえとして捧げられた」、「ここに神の愛がある」と、つながります。 パウロも同じようなことを違う形で言っています。「<span style="font-weight:bold;">私達すべてのために、キリストをこの世に遣わしただけでなく、十字架にかけて死に渡された神は、御子と共に、すべてのものを私達に賜らないはずはありましょうか</span>」(ロマ書8:32)。 ヨハネの手紙では「神は、罪の償いの為に、御子をこの世に遣わして、捧げられた」といいます。パウロは、神は、キリストを遣わして、そのキリストを十字架につけて殺した。そういうことをしたわけだから全てのものを私達に下さらないはずはないと言っています。これはヨハネが言った神の愛を広く、深く言っているように思います。 ヨハネの手紙は、神の愛(アガペーといわれる神の愛)について書いた手紙です。その手紙と、「信仰のみによって救われる。義とされる」ということを中心に、キリストのメッセージを語り続けたパウロが全く同じことを言っていることで、「神の愛」と「信仰のみによって義とされる」ことが一つになっているような気がします。そういうことが聖書で語られていることを、聖書から学びたいと思います。 /n犠牲愛  ヨハネの手紙では、「キリストを十字架につけて、私共の為に、罪をつぐなういけにえとした」とあります。これは犠牲の愛です。神の愛は、独り子イエスを犠牲にする犠牲愛である、と言えるでしょう。自分の独り子を犠牲にするような犠牲愛は私共の中にはないけれども、しかし、犠牲愛は私共の中にもあるような気がします。たとえば列車のホームから人が落ち、そこに電車が走ってきた。その時に自分の死をかえりみないで線路に飛び降りて、線路に落ちた人を助けることがたまにあります。これはまさに犠牲愛と言っていいものではないかと思います。但しそのような犠牲愛は、瞬間的に人間の中に起こるかも知れませんが、いつも常にあるとは言いにくいのではないかと思います。確かに、家族の中で、友人に対して、何か自分を犠牲にする、自分が損をする犠牲愛といってよい事柄が普段にも行われているのではないかと思います。しかし私共の中で行われる犠牲愛というのは一体どういうものかということを、少し考えてみたいと思いますが、そのことを考える為に、もう一度、聖書の言葉を見てみたいと思います。 /nキリストにおいて示された神  ヨハネ福音書に「<span style="font-weight:bold;">いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。</span>」(1:18)とあります。これは先ほどの、「キリストを遣わされた。ここに神の愛がある。」ということの中で、単に十字架につけられたというだけではなく、そのキリストは、神がどういう方であるかということを、キリストの生涯、教え、そして十字架と復活という全体で私共に示されたということです。もう少し広く考えますと、キリストにおいて、神がどういう方であるかということが、神の愛だけではなく、全てが示された。そのキリストにおいて示された神は、誰も見たことのない神です。 つまり私共は、(ルターの言葉によると)「神がおられる」ということは知らなくはない。信じなくはない。あるいは、うっすらと感じる。しかし、その神がどういう神であるかということは何も知らない。まさに、人間が神について考える時には、そういうものがあるわけです。例えば哲学者が神の存在の証明などをやりますけども、恐らく誰もそれによって神が証明されたとは信じないでしょう。 「<span style="font-weight:bold;">キリストにおいて神が示された。</span>」その、神が示された(啓示)ことは絶対的なものである、ということを、私共は知ることができるのではないかと思います。「<span style="font-weight:bold;">神を見た者はまだ一人もいない。ただ・・独り子なる神だけが、神をあらわしたのである</span>」(口語訳ヨハネ福音書1:18)。そのことを、「キリストが遣わされて、キリストにおいて神の愛が示された」という中に含めて、記憶しておきたいと思います。 /n聖書・キリスト・信仰・恵み  ルターの宗教改革の特徴として「聖書のみ」「キリストのみ」「信仰のみ」あるいは、「恩寵(おんちょう)・恵みのみ」と言われます。 その「キリストを信じる」ということについて、私共は自分で「キリストを信じたいから信じる」ということは出来ません。(出来ると思う方がいるかもしれませんが、それは多分本当ではないでしょう)。最も難しいのは、信じたい時に、信じることが出来ないということです。それが、私共の困難ではないでしょうか。しかし「信仰は聞くことによる」とパウロは語っています。「聞く」というのは、説教を聞く、神の言葉を聞く。ロマ書一章では「説教」を特に念頭においていますが、しかしもっと広く考えてもよいでしょう。 /n神の言葉を聞く  神の言葉・・キリスト御自身が神の言葉です。それが聖書に記されています。「聖書はキリストがそこに横たわっているまぶねである。ゆりかごである。」とルターは言いましたが、その聖書が神の言葉です。その聖書に即して聖書が語られる。神の言葉が語られる。その言葉が肉体となられた・・これが地上のキリストです。「キリスト」・「聖書」・「聖書に則して語られる説教」。これが神の言葉の三つの姿です。この神の言葉を聞くことによって信仰が与えられるのです。しかし信仰は、聞けばすぐ分かるか、聞けばすぐ信仰として私達の中で信じるかというと、そうではないことを先ほど申し上げました。 /n恵みのはたらき  ここに神の助け、聖霊(恵み)の働きがなければなりません。この働きによって初めて私共は信じることが許される。キリストを信頼することが与えられるのです。ですから「信仰のみ」という事柄は、実は「恩寵の恵みのみ」ということと密接に関連しているのではないかと思います。信仰こそ神の恵みの最大の賜物なのです。御言葉と共に働く聖霊、神の恵みによって、私達に信仰が与えられるのです。その御言葉は、聖書に即して語られる説教という形をとるのです。 /n私達の愛  ルターは、ハイデルベルクの討論で、神の愛と私達の愛との関連について論じました。「神の愛」についてルターは、まず人間の愛との比較で語っています。「人間の愛」は見た目、感じで判断するという、大体は外から見た目、「真・善・美」で判断します。本当かどうか。美しいか醜いか。善いことか悪いことか。こういうことについて人間は見た目で判断するというのです。見るだけでなく見聞きし考える。五感を含めて、それによって価値判断をします。相手によって、その相手が自分の判断する真、善、美の価値観に合っていれば、愛するわけです。これは「対象によって起こる」とルターは言いました。私共はものを考える、ある人を見る、会う、その瞬間から価値判断をするわけです。これは人間の本質です。しかしその時、その善悪、美しいか醜いかが必ずしも真相をついているとは言えません。むしろ自分の方に曲がって理解するのです。自分にとってプラスかマイナスかが何の理屈もなしに、即刻、瞬間に、そういう枠をもって私共は理解します。ルターが言う「自分の方に曲がっている真善美」。それによってそこから愛が生まれるということは、何か真相をついている気がします。 /n神の愛  それに対して「神の愛」というのは、「対象を愛し得るように変える」というのです。人間の愛と180度違うといえます。「人間の愛」は対象によって自分が気に入るかどうかによって生じます。「神の愛」は、愛し得ない者、愛することが出来ない者ないしは愛の対象にならない者(収税人、罪人など)、悔い改めを必要とする、そういう人々に愛が注がれ、彼らを愛しうるように変える・・。これは福音書でキリストがなさったこと、その通りではないでしょうか。そこに神の愛が現れていると思います。収税人や罪人の所に行き、キリストは交わり、その人々と話をし、その人々を変えたのです。愛し得るようにキリストが人々を変えた、その「愛」は、聖書の言葉で読みましたように、キリストの十字架において、そこでもう頂点に達しているといえます。そのことによってキリストは人間の罪を赦し、義とし、清める業をしたのです。私共にはそれはなかなか理解できません。理解出来ないので聖霊の助けがなければならないというわけです。けれどもそのように、キリストの十字架は、私達の罪を赦し、義とする働きを私共にもたらしたわけです。 /n聞くことによってキリストと結びつけられる  ではどうしたら、キリストが私達の罪を赦し、私達を義とするということが私共のものとなるでしょうか。  パウロは、キリストの十字架についてコリントの手紙一の1章で語り、「<span style="font-weight:bold;">このキリストは、私達にとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。</span>」(30節)という言葉で終っています。どうして「キリストが、私達の義と聖と贖いとなられた」のでしょうか。これは唯一、「キリストが神の言葉である」ということにかかっていると思います。ですから「信仰は聞くによる」と言ったのです。神の言葉を聞くことによって、私共とキリストが結び付けられる。これ以外にはないわけです。(勿論パンとぶどう酒の聖餐があります)。目に見えないけれども「言葉」というものを媒介にして、初めて「神の言葉であるキリストの言葉」が伝えられるわけです。 /n神の義  「神の義」は私達のものではありません。「神によって義とされる」というのは、「神の義」であり「神が認める義」は、神が持っています。それが私共に与えられるということが、説教によって結びつけられるということになります。私達の持っているもの全てがキリストに担われて、キリストの持っているものが私達に与えられる。私達の罪がキリストに担われて、キリストの持っている神の義が私達に与えられる。だから、「義と認められる」わけです。私達の「行為」が私達の「信仰」と認められるわけではありません。神の前に通用する義は神の義しかありません。それをキリストが持っておられる。それが私共に移される(転嫁される)。これが、キリストがなさったことです。これが、御言葉として私達に伝えられ、これが神の愛と私達の関係です。 /n自己愛からの自由  私達の愛は、自己愛から自分の方に曲がっており、それは体を持っている限り続くのです。今朝も「懺悔の祈り」をしましたが、私達は自己愛から自由であることを常に求められています。そして私達は常に礼拝を通して、神の御言葉を聞くことによって、そこから解放されるのです。それは、私共の義と聖と贖いになられたキリストに、御言葉を通して結び付けられるからです。 これが今日、私共が聞く御言葉であります。