「異邦人への恵み」 平賀真理子 伝道師

/n[詩編]22編25-32節 25 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。 26 それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 27 貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。 28 地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。 29 王権は主にあり、主は国々を治められます。 30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得 31-32 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。 /n[マルコによる福音書]8章1-10節 1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。 2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」 4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。 6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。 7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。 8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。 10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。 /nはじめに  今日の聖書箇所の少し前には、イエス様が異邦人の町に行かれたことが記されています。その道のりを考えると今日の「四千人に食べ物を与える」奇跡をなさったのも、恐らく異邦人の多く住む地方(デカポリス)ではないかと思われます。似た話が六章(30-44)にもあり、六章では人数が五千人、場所はイエス様の故郷ナザレ付近の村であっただろうと思われます。 /n「五千人」の奇跡の場合  五千人の奇跡が行われた場所は、父なる神様が第一に救おうとされたユダヤ人の町であり、イエス様は、まずご自分の民に神様の恵みの豊かさを示す奇跡をされました。パンの残りが「12の籠にいっぱいになった」という「12」は、イスラエル民族の12部族の象徴であるとも読み取ることが出来ます。更に「籠」は、もともとの言葉ではイスラエル民族が旅行の時に持参した「自分達の食事(旧約聖書の食物規定に準じた食物)を持ち歩く為の入れ物」で、口の狭いひょうたん型のあまり大きくない容器を指す言葉です。これらのことも、「五千人」の奇跡が、ユダヤ人を救いの対象とした奇跡であったことを示しているといえます。 /n「四千人」の奇跡の場合  今日読んだ「四千人」の奇跡では、残ったパン屑を入れた七つの籠の、「籠」は、異邦人がよく使っていた食糧を入れる布の籠のことで、これは、人が入るほどの大きさがあったそうです(使徒言行録9:25参照)。「七つ」も使徒言行録6章以降にあるように、七人の執事を選ぶことから異邦人伝道が広まっていったことと関連付けられます。そしてここでは「五千人」の時とは違い、弟子達からではなくイエス様ご自身の方から、四千人の人達の食ベ物のことを心配されています。この奇跡は、異邦人への神様の憐みの表れとして読むことができます。 /n二つの奇跡の共通点  1.イエス様の人々への深い憐み。2.「パンは幾つあるか(今あるものは何か)という問い。不足や不満や不安ではなく、現在あるものに弟子達の目を向けさせます。3.天の父なる神様に感謝や讃美の祈りを献げられたこと(主がいつも大事に実践されていたこと)。4.弟子達を通して裂いたパンを人々に与えたこと。イエス様が人々を救われる時、弟子達を用いられます。5.実際の恵みとしての食べ物を、皆満足していただき、余りも十分にあったこと。6.奇跡の後、弟子達と共にすぐにその場を舟で去られたこと、などが、二つの奇跡の共通点です。  これらをまとめると、「救いを求めてやって来る人々を憐れまれる主イエス様を中心とする分かち合いこそ、神の国の豊かさであり、神様を信じる人々に、その恵みは十分に満ち足りたものである」ことを示していると言えるでしょう。イエス様の御力やその愛は、もはやユダヤ人、異邦人の区別や、老若男女の区別もなく広がっていく事を示しています。 /n主を中心とした恵みの豊かさを分かち合う群に・・  新約の時代に入り、私達は、新しい神の民・イスラエルとされた者です。「<span style="font-weight:bold;">内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり・・その誉れは人からではなく、神からくるのです</span>」(ロマ書2:29)。神の民とされた私達に、「<span style="font-weight:bold;">あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です</span>」(エフェソ2:8)と告げられます。私達は今日の箇所から、今与えられているものを感謝し、神様の恵みの豊かさを信じ、恵みを独り占めするのではなく主を中心とした分かち合いで神の国は広がっていくことを学びたいと思います。  ご自分を十字架につけてまでも私達を救おうとされた方が、私達の主です。神様の愛を心から感謝する私達は、主にある兄弟姉妹と共に、「礼拝」を通し、聖餐式を通して、聖霊の働き、豊かな愛や喜びの感情を皆で分かち合いたいと思います。試練の中にある人達とは苦難を分かち合い、祈り支え合うことが出来ます。神様がそのような内面的な交わりを求める御方だからです。そのように歩んでまいりましょう。