「五人の賢いおとめ」 牧師 佐藤義子

/n[詩編]23編 1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 /n[マタイによる福音書]25章1-13節 1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 /nはじめに  この大地震の中にあって、このように守られて、礼拝をいつものようにおささげすることが出来ることをまず最初に神様に感謝致します。そして、今日までに、ここにおられる方の御家族の安全の確認が出来たことを神様に感謝いたします。又、伝道所の会員であるA兄の安全確認できましたが、御両親の確認はまだですので、守られていることを信じて、出来るだけ早く確認したいと願っています。  携帯も固定電話もつながらない中、伝道所は博子姉の緊急電話用電話を使って、神奈川にいる私の息子の電話を経由して、多くの方々と連絡がとれました。さらに断水がなく、プロパンガスの使用が可能であり、さらに、たきぎや練炭などの燃料がありました。更に、博子姉が昔、来客用に作った沢山の布団がありました。それらがすべて用いられて、伝道所が一時的に避難所の役割を担うことが出来たことは本当に感謝なことでした。 /n万事が益となるように共に働く  ロマ書には、「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを私達は知っています」とありますが、この御言葉が本当に真実であることが、この数日おこりました。地震時にはここにおられる三人の方の御主人が、それぞれ秋田、茨城、名古屋に出張中でした。伝道所に避難していた家族は心配しつつ祈りました。二人の方と連絡がとれ、最後の一人の方も、ローソクの明かりのもとで祈ったその夜、遅く、不思議なプロセスを経て安全が確認されました。一人は昨夜戻り、あとの二人の方は今、こちらに向かっています。安否確認のプロセスおよびこれまでの経過をここでくわしくお伝え出来ませんが(後でその機会があると思います)が、まさに、「万事が益となるように共に働いた」プロセスであり、神様を崇めました。 /n詩編23編  今日読みました詩編23編は、試練の中にある人々を慰め励ましてきた詩編として、よく知られています。作者は自分を羊にたとえて、主は羊飼いであり、私には何も欠けることがない。主は私を、柔らかい草の生えている場所で、草を食べさせ、身を横たえることの出来る安全な場所で休ませて下さり、さらに、疲れと渇きをいやす水が豊かにあるところに、私を先導して下さるので、私の魂は、霊的な神様の言葉である食物と水を得て、元気を回復させていただけると告白しています。そして主は、私を救いに至る道に導いて下さり、たとえ、狭く険しく見通しのきかない場所を通らなければならない時も、羊飼いの持つ鞭や杖で私達羊を、猛獣や、道から外れないように守り、いつも主が共にいて下さるゆえに、私に災いが襲ってきても恐れたり心配したりしないと告白します。主の守りは、敵の前でも平然と食事が出来るほど安全確実であり、主に従う者には恵みが迫って来るという喜びの歌です。そして最後に作者は、自分の命のある限り、主の恵みといつくしみがうしろから私を追って覆って下さり、生涯、私は主の宮に住むと歌います。 /n災いを恐れない  この作者の信仰告白は、私達の信じる神様がどのような神様であるのかを力強く伝えています。そして私達がこの神様を信じる限り、どのような状況の中に置かれても、平安を失うことはありません。私達も又、「たとい我、死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れじ」と、この困難な時でも、平安の中を、主を賛美しつつ、歩んでいきたいと思います。 /n賢いおとめと愚かなおとめ  次に読みました新約聖書も又、よく知られているイエス様の譬え話です。「賢い」というのは、頭が良いとか知識があるという意味ではなく、読んでおわかりのように、ランプの光を必要としていた最も大切な時に、ランプの光を確保し、祝宴の席に座ることの出来た人達のことです。そして「愚か」とは、ランプの光を最も必要としていた時に、補充の油を買いに行かねばならず、結婚式の祝宴に出かけながら、結果として喜びの席に座れなかった人達のことです。この十人は、同じ花嫁の友人であり、花嫁と一緒にわくわくしながら花婿が迎えに来るのを待っておりました。にもかかわらず、半分は祝宴に、半分は祝いの席から閉め出されてしまったのです。 /n天の国  これは、天の国の譬え話とあります。天の国とは、神様が支配されておられるところで、度々、結婚式の祝宴に譬えられる喜びに満ちた場所です。イエス様は、そこに入ることの出来る人について語っておられるのです。  多くの人々は、死んだら天国に行かれると思っています。そのような希望を持ち、そのように信じています。よほど悪いことをしない限り天国は皆が行けると考えている人々が多いのです。しかし聖書には、入りたいと願う十人の内、全員が入れるのではなく、半分の人しか入れなかったという厳しい結果を伝えています。入れた「賢い」人とは、予備の油を用意していた人達です。 /n予備の油  「予備の油」とは具体的には何を意味しているのでしょうか。何か立派な行為でしょうか。行いでは救われないと聖書は語ります。なぜならファリサイ派のように、表面だけをきれいにみせる偽善の行いがあるからです。では何か。「祈り」だと考える人もいます。確かに祈りを知らなければ天の国に入るのは困難です。けれども祈りだけではありません。「天の国」があることを信じ、「天の国」に入りたいと願い、入る為の準備をすることです。準備とは、イエス様を神の御子と信じ、その教えに従うことです。イエス様の教えに従うとは、神様を愛することと、人を愛することです。神様を愛するとは、神様を神様とすることです。つまり神様とは、私を越えた存在ですから、自分を最優先させるのではなく、神様が最優先であることを素直に、当然のこととして受け入れることです。 自分が何をしたいかではなく、神様が何を望んでおられるかを第一に考えることです。そして、神様を愛する者は、神様を崇め、神様を賛美すること、ほめたたえることを喜びとします。 /n偉大な神様の御業  私はこの地震で、停電の暗闇の世界から朝の光の世界に移って行くのを見ました。そしてやみから光を輝き出させた神様の偉大な業(創世記1:3)をほめたたえました。人間の誰が、この光を創り出すことができるでしょうか。神様しかおられません。地震で経験したあの闇が暗くて寒くても、陽が昇れば、気温も上がります。神様は、私達に命を与えて下さった方です。私達は、神様の赦しのもとで生かされているのです。私達の命も死も神様の御手の中にあります。  神様は、私達を愛しておられることを知らせる為に、御子イエス様を遣わされました。私達は目に見えない神様がどういうお方であるのか、イエス様を通して知らされています。そして聖書は、人が救われるのはその人の行いでは無く、「信仰」であると繰り返し語っています。 /n必ず終りは来る  今日の聖書は、この救いに入ることの出来る期間は、永久に続かないこと、ある時、思いがけない時に閉じられることを警告しています。実際、宮城県沖地震のような大きな地震は確実に近いうちに来ると言われていました。しかし私達は、地震がくることを知識として知りながら、一昨日突然起こって見ると、私達の準備がどれほど不十分であったかを思い知らされています。準備はいつでも出来る・・という過信があり、その内、その内、と言っている時に大地震はやってきたのです。同じように、天の国の祝宴の扉は、必ず閉まる扉です。  その扉が、今は開いています。ここにおられるすべての方は私も含めて天の国の祝宴に招かれている方々です。私達は五人の賢いおとめと同じように、予備の油を用意し、良き備えをもって、救いの道を歩んでいきたいと願うものです。