「ローマ到着」 牧師 佐藤義子

/n[詩編]84編1-13節 1 【指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子の詩。賛歌。】 2 万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。 3 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。 4 あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。 5 いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら。〔セラ 6 いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。 7 嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。 8 彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。 9 万軍の神、主よ、わたしの祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。〔セラ 10 神よ、わたしたちが盾とする人を御覧になり/あなたが油注がれた人を顧みてください。 11 あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。 12 主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え/良いものを拒もうとはなさいません。 13 万軍の主よ、あなたに依り頼む人は/いかに幸いなことでしょう。 /n[使徒言行録]28章1-16節 1 わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。 2 島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。 3 パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。 4 住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」 5 ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。 6 体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言った。 7 さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。 8 ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。 9 このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。 10 それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。 11 三か月後、わたしたちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出航した。ディオスクロイを船印とする船であった。 12 わたしたちは、シラクサに寄港して三日間そこに滞在し、 13 ここから海岸沿いに進み、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹いて来たので、二日でプテオリに入港した。 14 わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。こうして、わたしたちはローマに着いた。 15 ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。 16 わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。 /nはじめに  受難節第5聖日に入りました。受難節は主イエス・キリストのご受難を覚え、克己・修養・悔い改めの時として過ごす40日間でもあります。広辞苑によれば、克己とは、己(自分)の欲望、感情などを自分の意志で押さえ、うち克(か)つことです。修養とは、精神を磨き、優れた人格を形成するようにつとめることです。悔い改めについては、A.W.トウザーが書いたショート・メッセージをご紹介します。  「神にお出来にならないことがある。それは、神は私達の為に代わって悔い改めることが出来ないということである。神は全ての人に悔い改めるように命じられた。それは人間だけがすることの出来る働きである。一人の人が別の人のために悔い改めることは道義上不可能である。キリストもこれは出来なかった。主は私達の為に死ぬことが出来た。しかし私達の為に悔い改めることは出来ない。私達は救われる前に、自分自身の自由意志で神に向かって悔い改め、イエス・キリストを信じなければならない。  悔い改めは道徳的な改革を含む。間違った習慣は人間側の問題なので、人間だけが修正することが出来る。たとえば「うそ」をつくことは人間の行為であり、その全責任を自分で取らなければならない。悔い改める時、その人は「うそ」をつくことをやめる。神ではなく、その人が、自分自身でやめるのである。」 「<span style="font-weight:bold;">罪を犯す時、人は魂に取っ手をつけ、サタンが握れるようにする。 悔い改めは、その取っ手を取り除く。</span>」 /nマルタ島上陸  今日の聖書は、船が座礁して、パウロをはじめ200人以上の人々は泳いで全員無事に上陸した時の出来事です。上陸地はマルタ島と呼ばれ、かつてカルタゴが植民して支配していた島でした。聖書は、島の住民達が「大変」親切にしてくれて、「降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいてもてなしてくれた」と伝えています。それは冬に入る11月の寒い日で、雨にぬれながらも、たき火で、服を乾かし、体を温めてもらうという、その時の最大のもてなしであったことでしょう。200人以上の難を逃れてきた人々のため、住民は、自分達も多大な労苦を伴いつつ、素朴な愛をもって尽くしたことが想像されます。 /nご利益とたたりの信仰  パウロも、自ら、たき火の為に枯れ枝を集めて束にし燃やしました。その時、枯れ枝の中にいた「まむし」がパウロの手に絡みつきました。島の住民は、パウロの体に毒が回り死んでしまうに違いないと考え、パウロは難破して助かっても別の仕方で死ぬのは、パウロが殺人犯か何かで、正義の女神が生きることを許さないからだろうと考えたのです。  しかし何も起こらなかったので考えを変え、「死ぬはずの人が死なない」のは「パウロが神様だから」と考えました。この信仰は、日本人の中にも見出すことの出来る「ご利益とたたり」の信仰です。素朴な愛と親切を持ちながらも住民達は迷信と同居しており、パウロを生かしておられる生きた神様を知らない姿をここに見ます。 /nローマ到着  パウロが長官の父親の病を癒したことから、他の病人達もパウロのもとに来て癒してもらいました。その結果、島の人々はパウロ達に敬意を表し、三ヶ月後再びこの島から出航する時には必要なものを持ってきてくれました。そして目的の港に着いた時、パウロのことを伝え聞いた同じ信仰者の仲間達の出迎えを受けました。彼らはローマから約一日がかりで迎えに来てくれたのです。パウロは彼らを見て、神様の偉大な恵みと働きに感謝し、勇気づけられました。  思えば、第3回の伝道旅行から帰ってまもなく、エルサレムの神殿でユダヤ人達に捕えられ、何回かの裁判を経て、皇帝に直訴したゆえの、ローマヘの旅でありました。そしてその船旅も非常に苦しいものでした。今、ローマから迎えに来た信仰の仲間達を目の前にして、ようやくパウロの忍耐をもって待った長い時間が終ったのです。ついに、長いこと祈って待っていたローマでの、十字架の福音を宣べ伝える時を迎えたのでありました。  さて私達の人生はどうでしょうか。どんな人も、生涯ずっと順風満帆で終ることはあり得ません。今回の大地震や津波や、原発事故に関して多くの人達が「想定外」という言葉を使っていますが、私達の命は、明日をもわからない命であることを多くの人々が知りました。頭でわかっていたことを身をもって体験しました。私達はパウロのように、「神、我と共にあり」というインマヌエルの信仰を持ち続ける為には、日々、御言葉によって新しくされていくことが不可欠です。そして「祈りは呼吸」と言われるように、毎朝祈りを持って一日を始め、祈りをもって一日を終えるという積み重ねによって神様への信頼が深められていくことでしょう。パウロのローマヘの旅路を守って下さった方は、私達の人生の旅路をも、もちろん嵐の中でも、必ず守って目的地に着かせて下さるお方です。