「キリストは近くにおられる」 倉松 功先生(元東北学院)

/n[詩編]23章1-6節 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 /n[フィリピ信徒への手紙] 4章5-8節 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 /nはじめに 3月11日に起きた地震、津波、そしてその結果である放射能汚染、そういった事柄を私共はどういうふうに聖書の御言葉によって理解するか、どう受け止めるか、そういうことが私達に課せられていると思います。これらの出来事を理解し受け入れるということについて、聖書のどの御言葉で理解するのか、二つの典型的な考え方、受け取り方があるように私には思えます。その一つは「神の怒り」です。人間の罪、人間の傲慢。それに対する神の怒り、として受けとめる考え方です。その根拠として、詩編18:8やイザヤ書13:11、13などの御言葉があげられます。 「主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。」(詩篇18:8)。 「わたしは、世界をその悪のゆえに 逆らう者をその罪のゆえに罰する。 また、傲慢な者の驕り(おごり)を砕き 横暴な者の高ぶりを挫く(くじく)。」(イザヤ書13:11)。 「わたしは天を震わせる。大地はその基から揺れる。万軍の主の怒りのゆえに その憤りの日に。」(イザヤ書13:13)。 それに対してもう一つの見方があります。その根拠として詩編46:3、4、8・イザヤ54:10があげられます。 「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦(とりで)の塔。」(詩編46:3、4、8)。 「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。 しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。」(イザヤ書54:10)。 きわめて対照的な聖書の言葉であります。私は今回の出来事を、後者の御言葉で受け取ってよいのではないかと思います。 今朝、読んでいただいたフィリピ書「主はすぐ近くにおられます。神の平和が、キリスト・イエスによって守られるでしょう。」と、詩編23編「主はわたしの牧者」との御言葉は、「万軍の主はわたしたちと共にいます。」「主の慈しみは移らず 揺らぐことはない。」という旧約聖書の内容をさらに深めることができるのではないかと思います。 /n「主はわたしの牧者(口語訳)「私には何も欠けることがない。」(1節) 聖書はしばしば「私とキリストとの関係」を「羊飼いと羊」に譬えて記しています。たとえば「わたしは良い羊飼いである。(ヨハネ福音書10:11)や、99匹の羊を残して迷える羊を探す羊飼いの話(マタイ福音書18:12-)があります。しかし中でもこの23編が良く知られています。今朝は23編を読んでいきたいと思います。   冒頭に「主はわたしの」とあります。主とはイエス・キリストのことです。キリストは「私の」羊飼いです。キリストは私達一人一人に、どのような羊飼いとして立っておられるのでしょうか。先ず「私には何も欠けることがない。」と言われています。すべてが満足出来ていると理解することが出来るでしょう。安全である、安心である、という気持もそこにあるかもしれません。しかし内容を読んでいきますと、現実の世界において死の恐れとか苦しみとか、そういうものがないわけではありません。現実の生活では、私を苦しめる者がいる、死の陰が迫っている、災いがあるとも書いてあります(4節5節)ので、「何も欠けることがない」というのはどういう意味かを理解することが、23篇の重要な課題といえるでしょう。   /n「主(キリスト)は、わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」(2節) 死の陰の谷、死の危険もある。それにもかかわらず「何も欠けることがない」と満足している理由は、「キリストは、わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」からです。これは、 羊と羊飼いとの典型的な姿でしょう。この「青草の原に休ませ・・」の中に一つだけ見逃してならない言葉があると思います。 /n「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」(3節) それは、「青草・・」と「死の陰の谷・・」の間にある「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」という言葉です。私達はこの意味を考えなければなりません。「正しい道に導かれる」を、キリスト者として最後に大事なことがあると語ったフィリピ書4:8の言葉と比べてみたいと思います。「終わりに兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 フィリピ書では丁寧に、おおよそ正しいこと、誰が見ても正しい、誰もが持っている正しさ、人間的な正しさ、人間的な真理、相対的な、きわめてありふれた、しかし誰でもが知っているまこと、正しさを言っています。それは、私共人間が考え、行なっている正しさであり、知っている真理であると理解できます。パウロは、「私共は日常、これを大事にしなければならない。」と言っています。それに対して詩編23編では、「正しい道」と、ひと言で言っています。「正しい道」と言われているのは、キリストが知っている真理、キリストが持っておられる真理、キリストが説いておられる正しさ、真理です。「相対的」に対して「絶対的」といえる、その真理が私共に示されます。 私共が考えている日常的な正しさではない「絶対的な真理」がキリストによって示される。それによって「青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」ことになるのです。一人一人がキリストによって正しい道に導かれ、憩いの水のほとりに連れていかれるのです。おおよそ正しいのではなくて、絶対的な真理、正義の中の正義、キリ ストが示される真理、キリストというお方・神の子というお方において実現される真理、私達を動かして下さる真理、私達に対してその真理に目を開かせて下さる、私達に対して関係する真理。これが聖書の語る真理であり正義である、その道に私達を導いて下さるのです。    もう少し例をあげるならば、宗教改革者マルティン・ルターが「神の義」によって宗教改革者として立ち上がることが出来ましたが、その義も又、抽象的な義ではなく、「義に目覚めさせる、義とする働きをもった義」でした。それがここで言われている「正しい道」です。「正しい道」があるわけではなくて、キリストにおいて、キリストが持っており、キリストが私達に与えて下さる義、キリストが私達に働いて下さる、私達を動かして下さるもの。それが正しい道であり真理であるといえます。ですから「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」と言えるのです。   /n「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭(むち)、あなたの杖 それがわたしを力づける。(4節) これは具体的にはどういうことを背景にしているのでしょうか。「ダビデの詩」(1節)とありますから、ダビデに寄せて作られた詩と考えて見ると、ダビデ王が直面した苦しみ、災い、死の陰の谷を考えて良いかもしれません。ダビデ王は王の中の王と言われながら、彼が仕えたサウル王からいつも死の恐怖を与えられていました。それだけでなく、息子アブサロムの反乱がありました。そのことも背景として考えられます。今回被災された方達は、津波で「死」を前にされましたが、このことは、後になって理解できるかもしれません。   /n「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる(5節)。  これは、私達にキリストの最後の晩餐を思い起こさせます。キリストは十字架にかかる前の晩、パンと杯を下さった時、「これは私の体である。これはあなた方の為に流す私の血、契約の血である。」と言われました。「香油を注ぎ」は祝福です。パンとブドウ酒をキリストの体と血であると弟子達に渡し、それによって弟子達を祝福して下さった。5節は礼拝の中で持たれる聖餐のことと理解することが出来ます。 /n「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う(6節) 「恵みと慈しみ」とは、キリストご自身のことです。キリストご自身が恵みと慈しみを垂れているのです。「私を追う」とは執拗に付け回すことです。恵みと慈しみであるキリストは私共のそばにいる。私共を追っている。これは聖餐に劣らない神の恵みであり、キリストがそばにいるという力強い詩人の言葉です。キリストがいつも私共のそばにいる。・・どうしてそれを理解できるでしょうか。礼拝です。聖書を通して語られる説教によって思い起こすのです。このことを津波のさなかに思い起こすのは、恐怖にさらされているのでむつかしいでしょう。しかし礼拝において繰り返しこの言葉を聴き、私共を追って下さるキリストに出会うことです。出会うということは、私共がそこに行かなければ、(追って下さるキリストに目を向けて、胸を開かなければ、)そこにいらっしゃるということがわからないのです。 ヘブライ書に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情出来ない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(4:15、16)とあります。 説教と聖餐が行われる礼拝に出席する。それ以外に恵みの座に近づくことは出来ません。「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」ということに連なっているわけです。羊飼いが羊を青草の原に連れて行かれるということは、恵みの座、すなわち憩いの場である礼拝に出席することであり、礼拝の場に集うことです。礼拝によって与えられるものが「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」のです。 /n「主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」(6節) 「主の家」とは礼拝のことです。どのような建物や場所であろうとも、そこで礼拝がなされるところが主の家であり、私達の帰るところです。この23篇を読むことによって、私達はキリストが近くにおられることをもう一度思い起こすことが出来るのではないでしょうか。