「信じること、祈ること」 伝道師 平賀真理子

/n[詩編]20編2-10  苦難の日に主があなたに答え/ヤコブの神の御名があなたを高く上げ/聖所から助けを遣わし/シオンからあなたを支えてくださるように。 あなたの供え物をことごとく心に留め/あなたのいけにえを快く受け入れ/あなたの心の願いをかなえ/あなたの計らいを実現させてくださるように。 我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ/我らの神の御名によって/旗を掲げることができるように。/ 主が、あなたの求めるところを/すべて実現させてくださるように。 今、わたしは知った/主は油注がれた方に勝利を授け/聖なる天から彼に答えて/右の御手による救いの力を示されることを。 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。/ 彼らは力を失って倒れるが/我らは力に満ちて立ち上がる。 主よ、王に勝利を与え/呼び求める我らに答えてください。 /n[マルコによる福音書]9章14-29節   一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。 /nはじめに 今日の新約聖書は「山上の変容」の出来事の直後に起こった出来事です。イエス様が、神様からの証しを受けて山を下りるところは、モーセが神様から十戒を授かって山を下りた話を彷彿(ほうふつ)させます。ユダヤの民は、モーセが山へ登った後なかなか戻ってこないので、自分達を導いてこられた「主」である神様を忘れ、愚かにも、持っていた金(きん)を集めて子牛を作り、それを「神」とする不信仰の罪を犯してモーセと神様の怒りをかいました。イエス様と三人の弟子は、山上で素晴らしい体験をしましたが、山を下りた所では、他の弟子達が、霊にとりつかれた息子を救うことが出来ず、群衆に取り囲まれて、律法学者達と議論をしておりました。 /nイエス様の嘆き 山の下にいた弟子達は、イエス様から与えられていた「悪霊を追い出す権能」がなくなっており、危機に陥っていたのです。イエス様は、「いつ迄私はあなた方と共にいられようか」と嘆かれました。十字架の時が近いのに、山上に同行した三人の弟子も事の重大性が分かっていないようだし、山の下にいた他の弟子達も、イエス様の不在で霊の力が弱るような信仰では、「地上に神の国を立てる」という神様のご計画を力強く遂行することは叶わないでしょう。 「いつまで、あなた方に我慢しなければならないのか」は、弟子達の成長の遅さに、更なる忍耐を要することへの嘆きが感じられます。 /n「おできになるなら・・お助けください」 この息子の病気は、マタイ福音書によれば「てんかん」です。発作が起これば水や火の中、地面の上など所かまわず倒れこむので、いつも命の危険にさらされていました。おそらく父親は、それ迄も多くの医者や宗教家達に診てもらったことでしょう。しかし、今回も、頼ろうとした弟子達は治すことが出来ず、今、山から下りてきたイエス様に最後の砦として願い出たのでしょう。悲惨な経験を不幸にも積み重ねてきたので、父親はつい「おできになるなら」と、付け加えたのかもしれません。最初から逃げる体制をとりながら物事を頼む父親は、100パーセント信頼しているとは言えません。 /n「『出来れば』と言うか。信じる者には何でもできる」。 信じるとは、相手にすべてを委ねて、相手の力とその結果を受け入れることです。イエス様は天地万物を創られた父なる神様の御子としての力をお持ちです。父親はイエス様の言葉によって、自分の姿勢が間違っていたことを悟り、息子の回復を心から信じるように方向転換を促されました。父親の、「信じます。信仰のない私をお助け下さい」を、こう補って読むことも可能でしょう。「イエス様の御言葉に従って、神の御子の御力を信じるようになりたいと思います。今までの間違った姿勢をお赦しください。悔い改めて、神様の御力を100パーセント信じます。長く苦難の中にあった私を救って下さい。神様はその事がお出来になります・・」。 これは、罪の告白と新たな信仰の表明です。 /n「なぜ、私達は霊を追い出せなかったのでしょうか」 弟子達の、この質問に、イエス様は「祈りによらなければ出来ない」と答えられました。写本によっては、「祈りと断食」となっています。人間の生活への関心、特に食欲を抑えて神様へと思いを注ぎ、神様との対話である祈りに集中することの重要性を教えられます。キリスト教の祈りは、初めに自分の願望を祈るのではなく、まず、神様の御名があがめられること、神の御国が地上にも来ること、神様の御心が地上にもなされることを祈り、その後で、自分達の生活や罪の赦しを希うのです。礼拝で皆と一緒に祈る「主の祈り」のとおりです。それらの祈りを、イエス様の御名をとおして祈ることで、イエス様の父なる神様に聞いていただけると、私達信仰者は信じています。 /n主を信じること、主に祈ること 神様に100パーセント委ねることは、最初は難しいかもしれません。しかし、そうしたいと願っていれば、神様からそういうふうに変えていただけます。今日の箇所の父親のように、です。そうすることで、主にある平安を得、本来の自分(分裂していない自分)を見出すこともできるようになります。かつて自己分裂の中でもがき、苦しくて叫んでも聞いてもらえなかったのに、今や、一方的な憐みによって、神様につながり、本来の良さをもった自分が与えられるという救いに与ったことに喜びを覚えます。イエス様の御名を心から信じ、イエス様の御名によって祈ることで神様に聞いていただけるのです。その経験は積み重なっていきます。その豊かな恵みに心から感謝を捧げたいと思います。今、私達の身近では困難な状況が広がっています。しかしイエス様の恵みを受けている私達は、主を信じること、主に祈ることを通して光をいただき、周りにともし続けることができます。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ5:16~18)