「キリストの弟子となる」 牧師 佐藤 義子

/n[ダニエル書]7章13-14節 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。 /n[マタイによる福音書] 28章16-20節 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 /nはじめに 使徒言行録には、十字架にかけられ、三日目に復活されたイエス様は、その後40日にわたって弟子達に現れたことが記されています。 今日の聖書は、その後、父なる神様のところに戻られるイエス様が、この地上における最後の御命令と約束とを弟子達に与えられた箇所です。 /n「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし疑う者もいた。」  11人の弟子達は、復活のイエス様に会ったマグダラのマリアともう一人のマリアから、ガリラヤに行くようにとのイエス様からの伝言を聞き、この山に登ってきました。そして、復活されたイエス様にお会いし、礼拝しました。しかし11人全員がイエス様の復活を、生前の約束の成就として喜びをもって礼拝したのではなく、目の前におられるイエス様にお会いしても尚、「本当にこの方が、私達が従ってきたあのイエス様なのか。本当に十字架で殺されたあのイエス様が復活されたのか」と復活という現実を受け入れられずに、疑った弟子もいたということを聖書は伝えています。  「疑う」は、ドイツ語では「一つの状態であることが出来ず、二重の状態になる」という意味から成り立つ言葉です。同じマタイ福音書に、弟子達だけで、舟で向こう岸に渡ろうとした時、舟は逆風のため波に悩まされ、夜明け頃、イエス様が湖の上を歩いて弟子達の所に来られた時のことが記されています。ペトロはイエス様だとわかった途端、イエス様に頼んで、自分も水の上を歩いてイエス様の所に向かいます。途中強い風に気付き、急に怖くなり、沈みかけて、『助けてください』と叫びました。イエス様はペトロに向かって「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と、ここに、同じ「疑う」という言葉がでてきます。「疑い」は、このようにイエス様から目を離した時に起こるのです。 /n御命令と約束 山の上で、イエス様は弟子達に重大な命令と約束をされました。命令とは「すべての民をわたしの弟子にしなさい」というものです。そして約束は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」です。  弟子にする対象は「すべての民」です。例外はありません。私もあなたもその中に含まれます。 この命令の前には「だから」という言葉があります。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから・・」です。つまり、全ての人をイエス様の弟子にするその目的は、イエス様が天地万物の権威を神様から授けられた方である。だから、イエス様の弟子となり、イエス様に従っていくことは、人間本来の姿であり、幸せな生き方であり、神様の御心であり、神の国の民となる道なのです。    イエス様の弟子は、父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けることから始まります。バプテスマ(洗礼)を受けるということは、天地を創造された神様を信じ、神様は、私の罪を赦す為に御子イエス様をこの世に遣わしてくださったことを信じ、そして聖霊の働きを信じる信仰を公けに表わすことです。自分中心に生きる生き方を悔い改めて、神様を中心にして生きる生き方に変えることを決断することです。 /n弟子の道   キリストの弟子は、キリストの教えを守り、キリストに従う者になりたいと願います。キリストの教えの根本は神様を愛することと人を愛することです。さらに、キリストの弟子は、神様が聖であられるように私達も聖なるもの、清い者になることを願い、神様が義であられるように、私達も正しく、不義、偽りを憎む者になることを願い、そして全ての人が自分と同じキリストの弟子になることを願い、伝道の業に励みます。