「自分の十字架を背負う」  牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]50章4-9節 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。 わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。 見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。 /n[ルカによる福音書]14章25-35節 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」 *はじめに 今日のルカ福音書を初めて読まれた方は、あまりにも内容がきびしくて驚かれたのではないでしょうか。キリスト教は愛の宗教といわれているのに、愛する家族も自分をも「憎む」という言葉が登場するのですから・・。 今朝は、ご一緒に、このイエス様の言葉の意味を学びたいと思います。 /n一時的か、本物か。 この、イエス様の言葉は、大勢の群衆がイエス様を慕ってついて来ていた時の言葉です。イエス様についていけば、いつでもイエス様の話を聞くことが出来、その教えは耳に心地よく響き、イエス様と一緒にいると不安や恐れからも解放されたのでしょう。 しかしイエス様は、慕って来る人達がイエス様と生死を共にするくらいの覚悟をもっているのか、次のように言われました。 「もし、誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に、自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」 /n弟子の条件 「憎む」とは、憎しみを持つことのように想像しますが、これは、「第一のものを第一にすることを妨げるすべてのもの」を「より少なく愛する」ことです。私達人間は情に弱く、ともすると優先順位を入れ替えてしまうことがあります。すなわち、イエス様に従うよりも、自分の家族、更に自分の命などを第一に考えてしまうことがあります。このことをイエス様は良くご存じでありました。それゆえに、私達がイエス様に従おうとする道を、最も強く妨げる家族や自分への執着心を自覚させて、警告されました。 /n第一のものを第一に イエス様は、第一のもの、「あなたの創り主である神様からの召命」を最優先にする覚悟が、あなたにありますか、と、ここで問うているのです。エフェソ書(5:21-)では、夫婦は互いに仕えあい、夫は妻を愛するように教えており、父親は子供を怒らせないように育てることを命じています。又、テモテ書(3章)では、教会のリーダーは自分の家庭を良く治めている者、子供達を従順な者に育てていることが条件ですから、夫婦・親子間の愛は不可欠であり、愛し合うことは根本的な戒めです。 けれども、ここで言われるのは、優先順位の第一にくるべきものは血縁ではなく、まず「イエス様に従う」ということなのです /n自分の十字架を背負ってついて来る者 「十字架を背負う」という表現は、刑場に赴く死刑囚の姿です。死刑囚として刑場に向かう者は、家庭・社会・今迄の業績・社会的信頼など、これ迄生きて来た場所から切り離され、身に付けてきた全てのものが取り外されます。   イエス様の背負われた十字架は、私を含めた全人類の罪をあがなう(身代わりになって罰を受ける)ためのものでした。 「私」の背負う十字架は、イエス様に従うために犠牲にする家族愛や自己愛、罪につながるあらゆる欲望、社会的な名誉や富など、これまで自分にとって価値のあるもの、魅力的であったすべてのものを十字架につける(捨てる)覚悟をしてイエス様についていくことです。   自分の十字架を背負ってイエス様に従って行く者には、「永遠の命」「神の国」「罪の支配から救われて新しく生きる人生」が約束されます。 /n二つの譬え話   イエス様は、この後、「塔を建てる人」の話と、「戦いに行く王様」の二つの譬え話をされて、イエス様の弟子になろうとする者は、先ず自分にその覚悟があるのかどうか、自分がこれから立ち向かわなければならないあらゆる事柄を想定し、腰を据えて考えることを命じられました。何事も、途中でやめてしまうならば、始めないほうが良いからです。 私達の「信仰告白」は、覚悟を伴っている「信仰告白」でしょうか。 私達は「死に至るまで忠実」(黙示録2:10)でありたいと願うものです。