「我に返る」  牧師 佐藤義子

/n[詩編] 37編7-9節 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。 怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。 悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。 /n[ルカによる福音書] 15章11-32節 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」 /nはじめに  日本キリスト教団では、10月の第一日曜日を「世界宣教の日」として、宣教師の方々を覚えて祈ります。宣教師の方々からも、ご自分の活動について報告があり、毎年教団から冊子が送られてきます。現在、ベルギー、ドイツ、インド、インドネシア、台湾、カナダ、アメリカ、ブラジル、ボリビア、アルゼンチンの10カ国に20名近い宣教師を送っています。(日本で働かれている外国の方もおられます)。言葉も文化も歴史も違う外国での伝道には、さまざまな労苦が伴います。神様の召命に応えて歩んでおられる宣教師の活動を覚えて祈りたいと思います。ぜひ、冊子もお読みください。 /n「放蕩息子のたとえ」 今日の聖書は、有名なイエス様の譬え話の一つです。二人の兄弟がいて、弟は、父親が元気でいるのに自分の遺産相続分を要求し、家を出て遠くに行き放蕩の限りを尽くします。無一文になり、住んでいた地方が飢饉に襲われ、食べるのに困り、ある人の所に身を寄せますが、そこで豚の世話を頼まれます。(ユダヤ人にとって豚は汚れており、豚飼いの仕事は屈辱でした)。彼は豚のえさを食べたいと思うほど空腹に苦しみ、そこで初めて「我に返り」、父親を思い出します。 /n帰宅 そして、家には雇い人がいて豊かに食べていたことを思い出します。彼は、父に赦しを乞い、自分も雇い人の一人にしてもらおうと決心して自分の家に向かいます。帰って来た息子を、まだ遠く離れていたのに父親は見つけて、憐れに思い、走り寄って抱きます。息子は、「お父さん、私は天に対しても、又、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と自らの過ちを告白し、雇い人として家に置いてもらうよう頼むつもりでしたが、父親は息子に終りまで言わせず、僕達に命じて着換えや指輪や履物の用意をさせ、息子のために祝宴を開きます。 /n神の愛   父親とは父なる神様のことです。家出し、堕落した弟息子は私達人間のことです。父親のもとにいれば安全で平安の日々が保証されているにもかかわらず、弟息子は自由を求め、家を捨て、自己の欲望を満足させる為に財産を使い果たしてしまいました。同じように人間は、神に逆らい神から離れるならば、やがて困窮し、貧しさと欠乏の中で滅びの道へと進んでいくのです。 しかし弟息子は、命の危険が迫った時、初めて「我に返り」(口語訳「本心に立ち返って」)ました。弟息子は、父を、財産をくれる親ではなく、一人の人間として向き合いました。彼は自分の罪を告白し、あやまり、息子と呼ばれる資格はないと言い切りました。悔い改めた(生まれ変わった)息子として戻って来たのです。父は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と、彼を、再び息子として受け入れました。これが神の愛です。 /n兄息子 他方、弟の帰宅を喜び迎えることの出来なかった兄についても、イエス様はくわしく語っています。兄は、弟の為の祝宴が開かれていると聞いて怒り、なだめる父親に、自分がどんなにこれまで働いてきたかを訴え、父親の不公平さをとがめます。兄息子は、正しい者はその報いを受け、罪人が滅びるのは当然という、当時のファリサイ派や律法学者の態度を代弁しています。父は兄息子に言います。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。 今も多くの方々が世の束縛や自己の欲望の中で(神から離れた罪の世界の中で)苦しんでいます。私達は、神様のところに立ち帰る人々が多く起こされ、伝道所を訪れる方々を放蕩息子の父親のように待ち、その方々を心から喜び、お迎えしたいと思います。