「種まきと刈り入れ」     牧師 佐藤義子

/n[詩編]139編1-6節 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。 前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。 その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。 /n[ヨハネによる福音書]4章31-38節 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」 /nはじめに 本日の聖書は、イエス様が、水汲みに来たサマリヤの女と出会い、水を飲ませてほしいと頼んだことから始まります。 イエス様の生涯は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)というメッセージを、一人でも多くの人々に宣べ伝える生涯でもありました。6節では、イエス様が旅に疲れて井戸の傍に座っておられたこと、弟子達が食べ物を求めて町まで出かけていったことが記されています。時は正午頃とあります。この時間帯は暑くて普通の人は水を汲みに来る時間ではありません。このサマリヤの女は誰とも顔をあわせたくない事情をもっており、あとで、そのことが明らかになります。 /nサマリヤの女との会話  イエス様から「水を飲ませて欲しい」と頼まれたサマリヤの女は、驚いて、その理由(ユダヤ人がサマリヤの女に頼むことはあり得なかった)を聞きます。イエス様は、「私が誰であるかを知っていたら、あなたの方から生きた水を私に求めたでしょう」と答え、さらに、「井戸の水を飲む者は又、渇くが、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と語られました。イエス様と語る内、サマリヤの女はイエス様がメシアかもしれないとの気づき、水がめを置いたまま、町の人々にイエス様のことを知らせにいきます。やがて食料を買いに行っていた弟子達が戻り、イエス様に食事をすすめました。 /nイエス様の食べ物 イエス様は弟子達に、「私にはあなた方の知らない食べ物がある」と言われました。それは、空腹を満たす食物では無く、霊的な意味で活力を回復させる為の食べ物のことでした。イエス様は次のように言われています。  「私の食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」。 イエス様はサマリヤの女と出会い、神様から遣わされたご自分の使命を果たすことに専念されました。イエス様と出会った女性はイエス様の前に心を開き、変化が起こりました。彼女は町に行き町の人々にイエス様のことを伝えました。その結果、町の人々がイエス様の所に集まって来て、イエス様を信じました。 イエス様は、弟子達が食物を買いに行っている間に、もう一つの食物(神様の御心を行い、神様から託された業をなされたこと)を神様から受け取られたことを、弟子達に教えられたのでした。 /n種まきと刈り入れ 続いてイエス様は、弟子達に「種まきと刈り入れ」に関する二つのことわざを取り上げて語られました。 一つは「刈り入れまでまだ4カ月もある」という言葉です。これは種をまいて収穫するのに4カ月かかる。待たなければならないという意味ですが、イエス様は、もう畑は色づいて刈り入れを待っており待つ必要がないと言われました。これは人々の魂の救いについての言葉です。魂の救いは、人間の知恵による経験法則には必ずしも適用しないといわれます。事実サマリヤの女は、イエス様に出会って、会話の中で、イエス様を信じました。そればかりではなく、イエス様のことを人々に伝えに行くのです(種まきと収穫が同時)。      もう一つのことわざは、「一人が種をまき、別の人が刈り入れる」です(37節)。一般的な意味では、空しさや不正を耐える気持があります。しかしイエス様は、このことわざを、神様が私達を招かれる奉仕に当てはめられました。神様への奉仕は他の人の奉仕を土台とし継続していくものです。すべての者は自分自身の為に働くのでなく、神様を仰ぎ見ます。それゆえに種を蒔く者は、その結果や実りを見なくてもかまわず、刈りいれる者は、他の人がやってきたことを感謝して引き継ぎ、自分の仕事として結びつけて実りを得ます。そして両者ともその実りを喜ぶのです。教会で行われている魂への種まきと刈り入れの業にそれを見ます。