「新たに生れる」  牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]40章25-31節 /n[ヨハネによる福音書]3章1-15節 /n はじめに   今年度の御言葉は、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生れなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れた者は肉である。霊から生れたものは霊である。」です。 元旦礼拝では、毎年「その年の聖句」を学んできましたので、今日も、この御言葉についてご一緒に学びたいと思います。 /n ニコデモの訪問 今日の聖書に登場するニコデモは、議員であり、ユダや教の中でも厳格なファリサイ派に属していました。ユダヤ教徒(特に指導者達)は、イエス様に対して距離を置いていました。二節には、ニコデモがイエス様を訪ねて来たのが夜であったことを記しています。それは、イエス様への訪問を人に知られたくなかったからでしょう。彼はイエス様の話を見聞きし、イエス様の言動は確かに正しいと認めつつも、その一方でイエス様のことを警戒している仲間の人達のことを気にしていたのです。 /n 心の自由と不自由 人はなぜストレートに自分の確信に従って行動出来ないのでしょうか。それは、人の目、人の噂を気にするからです。自分が良いと思うことを良い、悪いと思うことを悪いと言えるのは、その人の中に自由が確保されている時です。しかし、言うべきだと思うことを人前で言えず、こっそり言いに来るのは、その人の心が不自由な状態に置かれています。ニコデモは、人々の判断や、この世の栄誉を気にしながら、その一方で、自分の心の中に生れたイエス様への信頼を伝えるべきだと考えたようです。 人間に対しても神様に対しても、両方に心が向いているニコデモを、イエス様はすべて見通された上で、暖かい忍耐をもって迎えます。ニコデモは「ラビ(先生)、私共は、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことは出来ないからです」と言いました。 その言葉に対して、イエス様は、「はっきり言っておく。人は、新たに生れなければ、神の国を見ることは出来ない。」と言われました。 /n 新たに生れる ニコデモは、「自分はイエス様を正しく理解している」と過信していました。けれどもイエス様は、「神様が、人間に対して行うことを理解する為には、あなたがまず新しく誕生することがなければならない」と言われたのです。人は、自然の誕生のままで神の国に入ることは出来ません。そこに入る為にはもう一度新しく生れなければならないのです。  「新たに生れなければ」と聞いたニコデモは、人が誕生を繰り返すことは不可能であると反論しました。 イエス様は、身体的な意味で新しく生れると言ったのではなく、新しい命がその人に吹きかけられ、新しく生きることが始まる時のことを言われたのです。この新しい命は、神様だけの所有であり、この神様の賜物をいただけた時のみ、神の国を見ることが出来、神の国に入ることが出来るのです。ニコデモが神様から新しい命を与えられて新しく生きる者とされるためには、創造者である神様がそのようにして下さらなければならず、人が出来ることは、祈り求めて、ただ受けることだけです。 /n「誰でも水と霊とによって生れなければ、神の国に入ることはできない。」   水と霊は新しい人を生み出します。その時人は、神様によって定められた生命力をもちます。新しく生れるとは、バプテスマの水を通して神様の赦しの領域に移されることです。神様が恵みをもってその人に近づく時、人は内側から捕えられ、形作られていきます。神様は霊において、その人に臨みます。神様は、その人の思いを支配し、その中に光を与えられます。神様は、その人の感覚や意志を呼び起こされます。(「新生」)。人間が自分自身から造りだす全てのものは肉の性質を帯びており、神様が私達に与えるものは霊です。霊は神様の本質と力です。