「主イエスの権威」  伝道師 平賀真理子

民数記16:1-7 マルコ福音書11:27-33 /nはじめに  今日の新約聖書は、イエス様が過越祭のためにエルサレムに入られて、三日目の出来事です。一日目、イエス様は祭りで集まってきたイスラエル人達に救い主として大歓迎を受けました(11:1-11)。二日目は、「宮清め」(エルサレム神殿が本来なら「祈りの家」としてあるべきなのに、商売人達の儲けのために利用されているのを見て、イエス様が商売人達を追い出された)をされました。このことはイスラエル社会で最大の尊敬を受けていたユダヤ教指導者達、及び神殿の運営方針に対して間違っていると批判したことになります。 /n「何の権威で」「誰が権威を与えた?」 イエス様は宣教の初めから、権威ある者として他のユダヤ教指導者達とは違っており、ファリサイ派の人々はその凄さを悟り、自分達が生き残るには、もはやイエス様を亡き者にすべきであると動き始めました(3章)。それまで自分達の教えをありがたく受けていた一般民衆が、自分達よりもイエス様の教えや癒しを見聞きし、その力に感動して受け入れる様子が、何よりもファリサイ派の人々を嫉妬させたことでしょう。  「宮清め」の翌日、イエス様が神殿の境内を歩いておられると、ユダヤ教指導者たちが問いました。「何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えているのか」。「このようなこと」とは、「宮清め」の行為自体とその後の神殿での教える行為、さらに大きくとらえると、今迄の、イエス様の宣教活動全般、更にはユダヤ教批判のことを指すと思われます。「何の権威で」「誰が権威を与えたのか」との問いは、「祭司階級でもなく、職人階級出身の『イエス』には、神に選ばれて高い身分にある自分達を超えて、現状を批判する権利はない」との非難が込められています。 /n「ヨハネのバプテスマは天からのものか、人からのものか」 イエス様は、この問いに答える条件として、「ヨハネのバプテスマは天からのものか、人からのものか」を答えるように求めました。ユダヤ教指導者達は、祭司階級にあることに誇りを持ち、その価値観に従うなら、洗礼者ヨハネこそ祭司階級の両親を持ち、救世主の道を真っすぐにする者として生きた人でした。ヨハネは、預言者達が語って来た「救世主の先駆者」として生まれる前からイスラエルの人々に期待され、生まれた後も人々に尊敬される生き方をし、水による洗礼で多くの人を悔い改めに導きました。イエス様は、ご自分を救世主だと証しした洗礼者ヨハネのことや、彼の施した洗礼のことを指導者達に思い起こさせようとされました。イエス様から問い返された指導者達は、しどろもどろになります。出身階級といい、聖書の預言と言い、彼らが頼りにする根拠そのものから、「ヨハネの洗礼は神様からきたもの」であることに思い至ったのです。 /n「分からない」 神様の約束の預言と実現としての洗礼者ヨハネ。そのヨハネが「この人こそ救世主」と証ししたのがイエス様でした。それなのに、ユダヤ教指導者達は人間的判断で、イエス様を「救世主」と認めませんでした。もしヨハネを、神様からの権威が与えられていたと認めるならば、ヨハネの証しを信じないことは、神様からの権威を信じないことになり、ひいては神様を信じないということにもなりかねません。それは、彼らの宗教的指導者の立場を否定することになります。あわてた彼らは、逆の、「人からの権威」という答を考えますが、それでは民全体の信仰とは異なり、人々からの支持を失います。彼らは「分からない」と答えました。 /nイエス様の愛による支配  イエス様は、神様の真実の前に、正直に答えようとしない宗教的指導者達との問答をこれで終りにされました。この世の権威は自分の利益や名誉を求めて他人をどこまでも押さえつけようとします。 この世の全ての権威を持っておられながら、忍耐強く、仕える愛で私達を導いて下さるイエス様に感謝を捧げます。その思いが「礼拝」という形で多くの兄弟姉妹と共に神様への賛美として献げられることも感謝です。  今週一週間、私達に起こる出来事を通して神様から何を語りかけられているか、よく知ることができるように、聖霊の助けを祈って過ごしてまいりましょう。