「だから、わたしも働く」  牧師 佐藤義子

/n詩編32:1-7 /nヨハネ福音書5:1-18 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がなさった奇跡の中でも「ベトザタの池の奇跡」(口語訳「ベテスダの池」)として良く知られています。この出来事ではイエス様と、38年間病気で苦しみ、歩くことの出来ない人、そして、熱心なユダヤ教徒達が登場します。  初めに38年間という時間を考えてみます。例えば私の場合、満州に生れて、日本に引き揚げてきて、子供時代を経て高校を卒業し会社に勤め、神学校に行き、大学紛争をはさんで7年後に卒業して学校の先生になり、結婚し、三人の子供が与えられ育てていた年月です。それは大変長い長い時間です。この長い時間を、この人は、病気という状態で、エルサレム神殿の「羊の門」とよばれる門の近くの池を囲む回廊で、他の同じような体の不自由な人々と一緒に過ごしていました。何歳からかわかりませんが、毎日神殿に来る大勢の人達を見ながら、神様はなぜこのような不公平をお許しになるのかとうらめしく思い、自分の人生に絶望したこともあったかもしれません。しかし長い間、同じ状況が続く内に、あきらめに似た気持を抱くようになっていたかもしれません。私達の想像をはるかに超えた人生です。 ある日イエス様は祭りの為エルサレムに来られ、回廊に横たわる大勢の病人や、目の見えない人、足の不自由な人、体のマヒした人達の中から、この、38年間病気で苦しんでいた人に目をとめられました。 /nいやし イエス様が最初にこの人に「良くなりたいか」と尋ねた時、この人は、「主よ、水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。」と答えています。 「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていてもいやされたからである。」と、ヨハネ福音書の最後に説明があります。 ここは間欠泉であったらしく、活性を帯びた水が時々噴出し、この活性の強い水に触れた人が、それによって治癒したことが背景にあるようです。彼は孤独であり、助けてくれる家族、友人はいませんでしたが、治りたいとの思いはこの言葉に溢れています。 イエス様は、この言葉を受けて、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。彼は即座に癒されて、イエス様の言葉通り、それまで横たわっていた担架か布団を持って歩き出しました /n「律法で許されていない」 その日は、律法ですべての行動が制限されている安息日でした。彼が病から解放され、喜んで床を担いで歩いていたところを、ユダヤ人達から「律法破り」と、とがめられたのです。彼は、自分に歩けと言った人がいて、自分は、ただその人の言うことを聞いただけだと釈明をします。ユダヤ人達は、律法を破ることを命じた者が誰かを追求しました。癒された男はイエス様の名を知りませんでしたが、この後イエス様と再会し、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかも知れない」と言われました。ところが彼はユダヤ人達のところに行き、自分に律法を破らせたのは「イエス」だと知らせました。そこでユダヤ人達のイエス様への迫害が始まったのです。   /n「私の父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働く」   迫害するユダヤ人に対して、イエス様は神様を父と呼び、父なる神様は昼も夜も24時間、365日、働いておられることを主張されました。イエス様は神様の御子として神様に従順であり、神様に逆らって行動されることはありません。熱心なユダヤ教徒達が、どんなに律法を引き合いに出して、その正しさを主張しようとも、イエス様は、「目に見える行為の律法遵守」を超えて、律法の精神である「神様の愛の業」に生きられるのです。父なる神様も、御子イエス様も、今も働いておられます。   それゆえに、神様を信じ、イエス様を信じる私たちですから、私達も又、神様の愛のわざに参与させていただけるよう、必要な時はいつでも働けるように、心も体も整えて、今週も歩んでいきたいと願うものです。