「 霊の結ぶ実」   牧師  佐藤義子

/n詩編95:1-7 /nガラテヤ書5:13-26 /nはじめに 私達人間が救われる為に何が必要かと言えば、悔い改めて、イエス様を信じること以外には何もありません。「律法」は、イエス様が来られる前は必要なものでした。何が正しく何が間違っているのか、道しるべの役割をしていました。そしてそれ迄は、律法を行ないさえすれば神の国に入ることが出来ると教えられていました。しかし人間は律法を完全に守ることは出来ませんでした。安息日の規定でもわかるように、ユダヤ教指導者達は律法の精神である神を愛し、隣人を愛することを忘れて、律法の外側の形だけ守ることに一生懸命でした。その姿は、イエス様から「白く塗られた墓」(外側だけきれいにして、内側は汚い骨で満ちている:マタイ23章)と断罪されています。 /n行為でなく、信仰によって救われる 律法を守ることで人間は救われると教えられた時代は、イエス様が来られたことで終りました。というのは、イエス様が、神様と断絶していた私達人間のために命を献げて、神様との和解の道を開いて下さったからです。    それが十字架です。私達人間が神様と断絶していたのは、私達の罪のためでした。その罪を神様から赦していただくために、罪のないイエス様が、人間の罪を引き受けて十字架で血を流されました。その血によって神様は私達人間の罪を赦し、私達と神様との間に和解がもたらされたのです。  イエス様を信じる信仰・・・イエス様が神の御子であり、神から遣わされ、私達の為に犠牲となられ、それによって私達は罪が赦され、神様の世界に招き入れられ、永遠の命が与えられたことを信じる信仰、この信仰によって私達は救われたのであり、この信仰によって誰もが救われるのです。 /nまちがった信仰 パウロの伝道によって生れたガラテヤの教会に、あとからパウロに敵意を抱く指導者が入り込み、救われる為には信仰のほかに、律法に従うように、さらに、割礼も必要であると教えました。彼らはユダヤ教から改宗した人達で、ユダヤ教的な考えをそのまま持ち込んできたのです。  パウロは、この福音理解の誤解に対して徹底的に戦いました。今日の聖書に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">兄弟達、あなた方は、自由を得る為に召しだされたのです</span>。」(13節)とあります。イエス・キリストを信じる信仰によって救われた人々が、今になって割礼を受けることで救いを完成させるかのように考えるならば、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私パウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります</span>」(5:2)。パウロが恐れていたのは、ガラテヤの人達が、自分達が救われたのは、イエス様の十字架で流された血によって罪が赦され、そのことを信じて、悔い改めて救われたのに、割礼が救いの条件のように(人間の行為が救いに力を与えるかのように)錯覚することでした。パウロは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です</span>」(6節)と教えます。 /n愛によって互いに仕える パウロは、生まれながらの本能に従う生き方ではなく、又、律法によって自己を律するユダヤ教的な生き方でもなく、第三の道として、イエス・キリストを信じることによって、あらゆる束縛から解放されるキリスト者の自由を教えました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私には、全てのことが許されている。しかし、すべてのことが益になって私達を造り上げるわけではない</span>」とコリント書(10章)で言っているように、今日の聖書でも、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさいと勧めます。 /n霊の結ぶ実 クリスチャンは、自分の感情に従って生きる者から、神様から送られる霊の導きに従って生きるように、根本的に変えられた者です。霊の導きに従う時、必ず実を結びます。それは「愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制」です。これらは律法によってではなく、苦しい修行の結果でもなく、御霊の導きに従って生きる中で、御霊の持つ力によって生れてくる実であり、結果的に律法の精神(神を愛し、隣人を愛する)をも満たしています。御声に従って歩んでいきたいと祈ります。