「分かって、信じる」 牧師 佐藤義子

/nイザヤ書45:20-25 /nヨハネ福音書4:27-42 /nはじめに イエス様が旅の途中、サマリヤの町の井戸のそばで、疲れて休んでおられた時、一人の女性が井戸の水を汲みに来ました。ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪く交流がなかったことや、見知らぬ男の人と女の人が話をすることは当時考えられなかったことから、普通であれば、二人の間に何か起こるということはあり得ませんでした。しかしイエス様は、水汲みに来たこのサマリヤの女性に声をかけて、「水を飲ませて下さい」と頼んだことから、二人の会話が始まります。水を頼まれた女性は驚いて、「どうして、私に頼むのですか」と聞き返します。イエス様は女性に、「あなたが私のことを知っていたら、あなたの方から私に水を求めたでしょう」と答えます。そして更に、「この井戸の水を飲む者は又、渇くけれども、私が与える水を飲む者は、決して渇かない。私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われました。 /nその水を下さい  女性はイエス様の言葉を聞き、「もう水汲みに来ないでいいように、その水を下さい」と頼みました。しかし、イエス様が語られたのは、肉体の渇きを癒す水ではなく魂の渇きを癒す水のことでした。イエス様は、女性が肉体の渇きのことしか考えていないのを見て、もっと大切な、根本的なことに目を向けるように会話を導かれます。それは彼女の「今、現実」の生活に目を向けることでした。女性が、正午の暑い時を選んで水汲みに来たということは、人目を避けて来たのであり、その理由があるはずです。 イエス様は女性に、夫を呼んでくるように言われました。女性は「私には夫はいません」と答えます。実は、女性は過去に5回離婚を繰り返し、今一緒に住んでいるのは、正式な夫婦関係を結んでいない男性であることが、イエス様によって明らかにされていきます。 /n選択 女性は、家庭を築くことに失敗し、今なお、人目を避ける生活が続いていたのでしょう。イエス様は、この女性の魂の渇きに目を留められていました。そして女性が、自分の内面に目を向けて魂の渇きを自覚し、その魂に注がれるべき「命の水」を求めるようにと導かれました。 自分の過去と現在を明らかにされた女性には二つの道がありました。一つは、自己弁護と自己正当化への道(そうなるにはそれなりの理由があり、環境が悪かった、相手が悪かった)です。それは自分を守る道、自分を変えない道、イエス様を拒否してこの場から逃げる道です。 それに対してもう一つの道は、真理から目をそむけず、正直に、自分自身を見つめて悔い改める道であり、それはイエス様の前にひざまずき、イエス様に服従する道であり、イエス様から「生ける水」をいただく道です。女性は、後者を選びました。イエス様を受け入れたのです。 /n「分かって、信じる」   女性は、イエス様の言葉を聞いている内に、キリストと呼ばれる救い主が来られることを思い起こしました。そのことを伝えた時、イエス様は、御自分がキリスト(救い主)であることを明らかにされました。  女性は水がめを置いたまま町に行き、人々にイエス様のことを伝えて、直接会いに来るように呼びかけました。もはや女性は、人目を避けて生きる女性ではなく、イエス様から「生ける水」をいただいた女性となりました。多くの人々がイエス様の所にやって来て、イエス様の話を直接聞きました。そして女性に言いました。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達が信じるのは、自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです</span>」。 キリスト教信仰は、自分が直接(聖書から)聞いて、分かって、信じるのです。