「わたしだ。恐れることはない」  牧師 佐藤義子

/n詩編54:3-9 /nヨハネ福音書6:16-21 /nはじめに  今日の聖書箇所の前には、イエス様の話を聞きにきた大勢の群衆の為に、イエス様が五つのパンと二匹の魚で、五千人もの人々の空腹を満たされたという奇跡の出来事が記されています。その後イエス様は、弟子達だけを先にガリラヤ湖の向こう岸のカファルナウムに渡らせるため、舟に乗せ、御自分は、群衆を解散させてから、祈る為に一人、山に登られました。 /n山に退かれた イエス様が山に登られたのは、奇跡を見た人々が、御自分を王にしようと捜していたので、そこから避けるためでもありました。(6:15)。群衆がイエス様を王にしようと考えたのは、イエス様の奇跡の業の中にかつてのモーセの姿を思い起こしたからでしょう。群衆は、イエス様が王になって、自分達のこの地上での幸福のために働いてほしいとの願いがありました。言い換えれば、群衆は自己目的追求の為にイエス様を利用するという思惑がありました。ですからイエス様は、それを「知り」山に退かれたのです。 /n人間の大きな誤り イエス様は、人間を罪の支配から救い出す為に神様が送って下さった方です。いいかえれば「神様からの大きな私達人間への贈り物」であり賜物です。私達はイエス様を、私達の救い主として信じ、感謝を持ってイエス様を受け入れ、このお方に従うのです。ところが群衆は、自分達の利益の為にイエス様を連れ出そうとしました。ここに主客転倒があります。 ある学者は、「群衆はイエス様を受けようとせず、自ら掴み(つかみ)取ろうとした」と表現します。「贈り物」ならば、只感謝を持ってそのまま受けると同時に、贈り主である神様の私達への愛の心を知り、その愛をいただきます。そこに人格的な愛の交流が成立します。しかし自分から手を伸ばして、その贈物を掴み取ろうとする者は、自分の利益と欲望を満足させることが目的で、贈り主に対する関心はなく、愛の交流は成立しません。しかも、自ら掴み取ろうとする者は、贈物を自分の思い通りに動かそうとしますから、もう贈り物は恵みではなくなり、自分の要求が残ります。 /n「彼らは恐れた」 一方、弟子達は向こう岸を目指してこぎ出しましたが、強い風が吹いて湖が荒れだしました。25-30スタディオンの距離(約5・6キロ)を行ったところ、舟が前に進まなくなり弟子達は苦労していました。舟に水でも入ってきたら舟が沈むのではないかと不安になります。たとえ漁師経験者がいても、いや経験者なら尚のこと強風という自然の猛威と戦うことの、人間の限界を知りつくし、恐怖も伴っていたことでしょう。 その大変なさ中に、イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。「彼らは恐れ」(19節)ました。すでに暗くなっていましたから、最初は何が近づいてきたのかわからず、恐れ、おびえたのです。 /n「わたしだ。恐れることはない。」(20節) 自然の猛威に対する恐れと、何ものかが近づいてきたという恐れを吹き飛ばしたのは、イエス様の、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしだ。恐れることはない</span>。」との一言でした。この一言が、それまでの弟子達の労苦・困難・思い煩いを吹き飛ばし、肩に力が入り緊張していたその状況を打ち破りました。 弟子達は大喜びでイエス様を舟にお乗せしようとしましたが、舟はまもなく目的地に到着したのでした。 日常的には弟子達は、いつもイエス様を愛し尊敬し信頼していました。しかし今日の箇所では、弟子達はイエス様が海上にいる自分達を助けに来てくれるとは考えませんでした。だからこそ近づいて来る何かを見て、おびえたのです。イエス様は、群衆からは退かれましたが、人間の魂を救うというイエス様の仕事を助けるために選び出した弟子達への愛は、片時も離れることはありませんでした。体は離れていても、弟子達が今、どこで、どのような状況の中に置かれているかはご存じでした。そして、御自分を必要としている時はどこにいようとも、来て下さり「わたしだ。恐れることはない。」と言って下さいます。 この言葉は、信じる私達に今も、同じように語りかけて下さっています。