「終末についての御言葉(1)」 伝道師 平賀真理子

/n詩編46:2-12 /nマルコ福音書13:1-13 /nはじめに  本日の聖書には、地震、戦争、飢饉という言葉があり、「今は終末だろうか?」と不安に思われる方もいらっしゃるかもしれません。そんな折に与えられた御言葉を、じっくり追いながら学んでいきたいと思います。 ユダヤ教の総本山エルサレム神殿で、本当は、救い主として迎えられるはずであったイエス様は、ユダヤ教の有力者達によって排斥されました。  イエス様は、彼らと討論しながら彼らの誤りを指摘されましたが、彼らはイエス様を救い主と認めることはできませんでした。エルサレム神殿は、古い形を固守したが故に、新しい形を受け入れられなかった「不信仰」のシンボルとなりました。にもかかわらずイエス様の弟子の一人は、「何とすばらしい建物でしょう」と、表面的な見方のままです。  イエス様は、エルサレム神殿が「人間の救い」の役目を果たさないなら、外見はどんなに立派でも、近い将来、崩れて滅びると言われました。 /n二つの質問 イエス様は不信仰のエルサレムを出て、そこを見下ろせるオリーブ山に来た時、弟子達(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)がひそかに尋ねました。彼らは最初にイエス様に呼び集められた弟子達です。素晴しいエルサレム神殿が崩壊するのは「終末」の時と考えて質問したのです。 「終末」は、「終りの日」・「主の日」と言われ、神様が審判と救いの完成の為にご自身を現わされる日であることがユダヤ教の中で知られていました。弟子達は二つの質問をしています。最初の質問は、いつ「終末」が来るのか。そして、第二の質問は、終末の「前触れ」としての出来事は何かです。 /n終末の前ぶれについて イエス様は、二番目の質問「前触れ」について、偽の「救い主」を語る者達の出現、戦いや地震や飢饉などを挙げられました。しかし、これらは起こるに決まっているが、まだ世の終りではないと言われます。 「起こるに決まっている」とは、神様の救いを理解できず、信仰を表すことができない「この世」は、主の御心に沿わず、崩壊していくようになっているのです。そして戦争・地震・飢饉などは「産みの苦しみの始まり」と言われます。これは、古い形の信仰に生きる世界から、新しい形の信仰の下に広がる世界へと移り変わる時(生まれる前)に伴う「苦難」です。御子イエス様がこの世に来られ、神の国の福音を広め、イエス様の救いを信じる者達が神の国の民となる世界、誰もが本当の神様の愛の主権の下で平安に生きる世界は、「産みの苦しみ」の後、到来するのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は自分の事に気をつけていなさい</span>。」(9節) イエス様は「あなた方は自分の事に気をつけていなさい。」と言われました。何をどう気をつけるのでしょうか。それは今後の出来事における弟子達の態度です。イエス様を救い主と信じるゆえに、権力者からの迫害があり、そこではイエス様について証言を求められます。力ある反対者達の前で自分の信仰を表現するのです。しかし神様のご計画によれば、信仰者がそのような目に遭うことで、「主が来てくださった!救いがこの世で成就される!」という福音が、全ての人々に広まることになるのです。人間の思いもよらないことです!「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される</span>」(詩編46:9)。 更に、迫害の中でも助け主として「聖霊」が共に居てくださり、信仰者を通して聖霊が語ってくださることを教えています。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならない</span>」(10節) 人間が、今の自己中心の世界を卒業し、全く逆の「神様の愛」を根本にした世界を生み出していくには、「産みの苦しみ」が待っています。 主の福音が広まるために弟子達は、純粋で強い信仰を貫き迫害に負けず、イエス様が救い主であると証しし、多くの人達が殉教していきました。「主の十字架」により、この世に対する神様側が勝利していることは確かです。私達も又、信仰によって新しい「神様主権の世」を創りだす手伝いが許されていることを感謝し、主の証人としての歩みを励みましょう。