「洗礼者ヨハネ」    牧師 佐藤 義子

/nエゼキエル33:7-11 /nマタイ3:7-12 /nはじめに 私達の社会では、地位の高い重要な人物と考えられる人(例えば天皇陛下や大統領など)が車で目的地に向かう時、必ず先導車が用意されるように、神様がこの世を救う為に、独り子イエス様を天から遣わされるにあたって、先導役の使命を与えられた人物がいます。その人こそ、洗礼者ヨハネです。 洗礼者ヨハネの誕生については、ルカ福音書1章に記されていますが、彼は、メシア(救い主)と同じように旧約聖書で預言されています。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">呼びかける声がある。主の為に、荒れ野に道を備え、私達の神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ</span>。」(イザヤ書40:3)。 洗礼者ヨハネの使命は、荒れ野に道を備えることでした。「荒れ野」とは神様から離れた人々の心(魂)のことです。荒れ野に道を備えるとは、神様から離れたこの世(人々の心)に、メシア・救い主が来られることを伝え、救い主が来られた時に、人々が救い主の到来を心から喜び受け入れられるように、人々の心を神様の方へと向きを変えさせることでした。 /n悔い改める=向きを変える ヨハネが荒れ野で語った言葉は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)です。「悔い改めよ。天の国は近づいた」とは、「長い間神様と遠く離れて生活をしてきた人間の世界に、天の国(神様の支配)がまもなく始まる。だから一人一人、悔い改めて、神のもとに帰りなさい」ということです。悔い改めるとは「向きを変える」ことです。今まで自分中心に生きてきた人が、今度は神様に向かって生きるようになることです。 この洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">エルサレムとユダヤ全土から、又、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白して、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受け</span>」ました(5-6節)。すなわち、多くの人々が、洗礼者ヨハネの叫ぶ声に耳を傾けたのです。   /nファリサイ派とサドカイ派 ヨハネのもとにきた人達の中に、ファリサイ派とサドカイ派の人々が多くいました(7節)。彼らに共通していたのは自分達がアブラハムの子孫であり選民であるという特権意識でした。自分達は無条件に守られており、神様から見捨てられることはないとの、安心感と傲慢がありました。  洗礼者ヨハネは彼ら達に、「悔い改め」を口にする時には必ず「悔い改めの実」を結ばなければならないと厳しく語りました。悔い改めるとは、今まで神様に背中を向けていた人が、向きを変えて神様の方に向いて、自分を喜ばせるのではなく神様に喜んでいただく生き方を選ぶわけですから、当然、「実を結ぶ生き方」へと変えられていくはずなのです。  /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私の後から来る方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる</span>。」   ヨハネの水のバプテスマは、悔い改めのバプテスマでした。しかし、ヨハネのあとから来られたイエス様を、「神の御子・救い主」と信じたキリスト者は、イエス様から聖霊と火によるバプテスマを授けていただけます。 聖霊によるバプテスマとは具体的にはどういうことでしょうか。「聖霊」、霊は「息」の意味があります。息は命です。神の霊は神の命を人の中に吹き込み、新しい命がその人の中で躍動し無気力さや敗北感は消えうせます。又、霊は「風」の意味があります。風は力です。神の霊が人の中に入る時、人の弱さは神の力によっておおわれ、不可能な業を可能に、耐え難きを耐えさせ、勝利が与えられます。又、霊の働きは人の心に調和をもたらし、神の真理を認めさせ、偏見を取り除きます。  火によるバプテスマとは、具体的にはどういうことでしょうか。 火は悪を滅ぼし尽くす火です。聖霊と火によって、私達人間の中にある悪は滅ぼされ、罪を清めていただく道が用意されています。   私達は、ファリサイ派やサドカイ派の人達のように神様を知ったこと(知られたこと)で安心してはなりません。信仰の生涯は一生です。私達は水によるバプテスマで満足することなく、未だ聖霊と火によるバプテスマを与えられていないと感じるならば、切に祈り求めていきましょう。