「主を記念する」    伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書61:1-4 /nマルコ14:1-9 /nはじめに   過越祭は、イスラエルの民の「出エジプト」を記念する大事な行事です。神様は、奴隷として苦しんでいたイスラエル民族を、寄留地エジプトから脱出させる許可をエジプト王から出させるために、十の災いを起こされました。その最後の災いが「初子の死(家畜も含む初めての子供の死)」です。ユダヤ人はモーセからこの災いの避け方を知らされました。それは小羊の血を家の入口の二本の柱と鴨居に塗ることでした。この犠牲の血によってユダヤ人は初子の死の災いを過ぎ越すことが出来ました。一方エジプト人の家では、初子の死の災いを受けて、国中に嘆きの叫びが起こりました。王家も例外ではなく、王は初めてイスラエル民族が信じる神様の偉大な力を知らされ、脱出の許可を与えざるを得ず、イスラエルのエジプト脱出が実現したのです。「過越祭」とは、神様が、自分達を救い出す為に働いて下さったことに感謝し、「災いを過ぎ越された」恵みの出来事を決して忘れない為に制定された祭りであり、その後に行われる「除酵祭」も、エジプト脱出の際、パンに酵母を入れて発酵を待つ余裕はなく、膨らまない固いパンしか持っていけなかったことを記念する祭りとされています。 /n「一人の女」の行動 今日の聖書は、過越祭の前日の「ベタニア」での出来事です。首都エルサレムから3?ほど離れた村で、イエス様一行は、シモンの家に滞在して食事の席についていました。イエス様はこの旅が、十字架への道であるとお分かりになっていた中で、重い皮膚病で苦しんでいたシモンを憐れんで、癒されたのであろうと推測されます。そこへ一人の女性が入ってきて横座り(当時の慣習)されていたイエス様の頭に、香油の入っている壷の中身全部を注ぎかけました。当時は来客に香油を数滴注ぐ風習があったようですが、おそらく来客でもない女性が、壷を壊してまで、持ってきた香油全部をイエス様に注ぐ行為は異常と言えるでしょう。 /n人々の反応 そこにいた人達は、「300デナリオン以上の価値(一年間の賃金)があるのに何と勿体ないことをしたのだ! その分、貧しい人達に施せたのに」と非難しました。彼らは自分の考え・感じ方で相手をすぐに裁きます。何より自分のメンツ・立場・感情を第一にして、自分の醜さを「貧しい人々への施し」という大義名分で女性を批判したのです。しかしイエス様は、罪深い人間の観点を神様のご計画からの視点へ高めて下さいます。 /n「この人は埋葬の準備をしてくれた」 イエス様は「私に良いことをしてくれた」とこの女性を評価されました。彼女は、神の御子にふさわしい「人間が出来得る最も美しい信仰」の姿でイエス様に敬意を示しました。すなわち自分の持っていた最高に良い物(香油)を惜しげもなく、全部イエス様に注ぎ尽くしたのです!  イエス様は、人間界の出来事よりも神様の救いのご計画が優先されることを述べておられます。当時、その地方の埋葬方法の一つが「香油を遺体に塗る」ことでした。香油を注いだ女性の行為は、人々の罪を贖う為に、死なねばならないイエス様に対する埋葬の準備となったのです。 /n記念として語り伝えられる イエス様は「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言われました。この女性は主に出会い、機会をとらえ、勇気を持ってイエス様にふさわしく行動しました。聖書はこの女性の名前は記さず、「したこと(愛と働き)」のみを記念し、伝えています。それは、イエス様の十字架の受難と復活こそが、福音の最大テーマであり、すべてはその「証し」だからです。  私達の「本当の救い」を、御自分の「十字架の犠牲」によって成し遂げられたイエス様と、御自分の御子を献げてまでも不信仰な私達人間を愛して救う為に、生きて働いて下さる父なる神様がおられます。私達は、神様の事を第一に思い(愛し)、自分を献げ尽くす程に行動した女性への祝福を思い起こしつつ、勇気をもって、今週も歩んでまいりましょう。