「過越の食事と裏切り」   伝道師 平賀真理子

/n詩編40:6-13 /nマルコ福音書14:10-22         /nはじめに    イエス様は、ご生涯の最後の一週間を、エルサレムで過ごされました。神様から遣わされた者として、神様の愛された都・エルサレムで死なねばならなかったのです。イエス様はその尊い命を犠牲にすることで、人々の罪を肩代わりすることが、父なる神様の「救いのご計画」であると分かっておられました。それについては、イエス様は(敵が自分を殺そうとしているとしても)、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない</span>。」(ルカ福音書13:33)と言われています。 /n日曜日~水曜日 日曜日、イエス様は救い主としてイスラエルの人々に大歓迎されました。 月曜日は、エルサレム神殿が商売の巣窟になっていることを嘆かれて、商売人達を立ち退かされ、本来の神の聖さを取り戻そうとされました。 火曜日は、イエス様の反対者達(大祭司や律法学者達)との論争によって、神の知恵の偉大さを明らかにされました。 水曜日、反対者達はイエス様を亡き者にしようと強く決意します。しかし、イスラエルの人々が一番大事にしている「過越の祭り」の最中は避けようと話し合いました。又、水曜日、イエス様は一人の女性によって「香油を頭に注がれ」ました。これは、人々の罪の贖いのために殺されるというイエス様の尊い使命による死の「埋葬の準備」をしてくれたものと、イエス様はその行為を喜ばれました。 /n木曜日 今日の聖書は、弟子の一人、ユダの行為が記されています。イエス様が愛された弟子の中から、イエス様を反対者に引き渡そうとする者が出ていたのです。ユダは、イエス様を引き渡す報酬としてお金をもらう約束をします。(しかし後に、そのお金を投げ捨てて自殺することになります)。 この日は、除酵祭(酵母を除いたパンを食べて、出エジプトの出来事を記念する)の第一日、過越祭として一番大事な、小羊を屠って食事をする日でした。 本当は、まさにこの時、イエス様が「過越の小羊」として犠牲になることが近づいていたのです。 イエス様は、12人の弟子と共に、過越の食事の席について言われました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">はっきり言っておくが、あなたがたの内の一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている</span>」。  信仰によって結びついたはずの家族同然の集団の中で、そして、神の恵みを思い起こす食事の席で、親しさとは裏腹の、神の祝福とは裏腹の、人間の罪に根を持つ「裏切り」が起こっている! 人間とは、何と救いようのないものなのでしょうか。 /n「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」  この御言葉は、主の深い悲しみです。御自分が人類の罪を背負い、「過越の小羊」のように犠牲になり、それによって信じる者の救いのしるしになられることは、御自分の使命だと受けられていたことでしょう。 しかし、イエス様を裏切る者は、「生まれなかった方がその者のために良かった」と、相手と同じ立場に立って悲しんでおられる言葉です。 「主の恵みを知りながら罪に負けたり、敢えて反抗して不信仰の道を辿る者は、主を心から悲しませる」ことを深く肝に銘じるべきでしょう。 /n神様の御声を聞き、ご計画のために生きる 神様の言葉にいつも従えるほど清くない私達。  神様の深遠なご計画を理解できずに目の前の利益を優先させる愚かな私達。 だからこそ救い主イエス様の贖いや、愛や、御言葉が必要なのです。 「罪の赦し」という恵みをいただかなければ、神様の下さる平安や正しい道から逸れてしまうのです。 神様は、私達に福音を知らせ、聖霊を送って下さり、御国へ招いて下さっています。 私達は、信仰を持つ以前と同じ(この世の)価値観のもとで、神様の御心よりも自分の欲望を優先していないか自分自身を吟味する必要があるでしょう。 福音に照らし合わせて、神様の御声を聞けるように、祈る時を多く持ちたいと願います。 イエス様に倣い、神様のご計画のために献げられるよう、聖霊の助けを祈ってまいりましょう。