「立派な信仰」   牧師 佐藤義子

/n詩編103:6-13 /nマタイ福音書15:21-28           /nはじめに     今日の聖書の前半には、ユダヤ教指導者達が首都エルサレムからやって来て、イエス様の弟子達が「昔の人の言い伝え」を破り、食事の前に手を洗わないことを非難したことが記されており、今日の箇所は、そのようなことがあった後の出来事です。イエス様は、ゲネサレトを出発しティルスとシドンの地方へ行かれました。ここは、地中海に面したフェニキア地方にありユダヤの国境の外側にあります。イエス様がこの異邦人の住む地域に足を向けられたのは、日毎に高まる宗教指導者達からの非難や論争、又、救いと癒しを求めて休みなくイエス様のもとを訪れる群衆達への、愛の業から一時期離れて、弟子達と共に静かな時を求められたのかもしれません。 /n「私を憐れんで下さい」  ところがこの地方に来た時、イエス様は「主よ、ダビデの子よ!」と、その地に生まれたカナン人の女性に呼び掛けられました。「ダビデの子」とは、救い主はダビデの子孫から生まれるとの信仰により、救い主・メシアを意味する言葉です。この女性は長い間、娘の病気で苦しんできましたので、異邦人でありながら、イエス様の噂を聞いて、「自分達の苦しみを取り除いて下さる方はこの方しかいない」と強く確信したのでしょう。女性はイエス様に向かって、「私を憐れんで下さい」と叫び続けました。 /n「イエスは何もお答えにならなかった。」(23節)  女性はイエス様達一行から離れようとせず、叫びながらついてきます。これに困った弟子達がイエス様に解決を求めますと、イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。</span>」と答えられました。「失われた羊」とは、旧約聖書(エゼキエル書34章)が背景にあり「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は自分の羊を探す。私は失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする</span>。」(12節・16節)、イスラエルの民が信仰を失い、さまよう姿をあらわしています。 /n「子供達のパンをとって子犬にやってはいけない」 神様は、「御自分の民」として選んだイスラエルの民を救い出す為に、イエス様を地上に送り、神様のもとに立ち帰らせようとされました。イエス様の救いは「イスラエルの民」に限定して、そこに集中されました。しかしカナンの女性は大胆にも、今度はイエス様の前にひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と訴えました。イエス様は、女性の願いを聞き入れることは出来ない理由を、「子供達のパンをとって子犬にやってはいけない」と説明されました。子供達とは選民イスラエルのことです。小犬とは異邦人(カナンの女性)のことです。すなわち、子供の食事が犬の食事よりも優先されるように、イスラエルの民が優先されるのは、神様が定められた救いの秩序だと言われます。 /n「主よ、ごもっともです。しかし・・子犬もパン屑はいただくのです。」 「子犬もパン屑はいただく」との女性の応答に、イエス様は「あなたの信仰は立派(大きい・偉大だ・見上げたもの)だ。」と、大変喜ばれました。それは、女性がイエス様の言葉をすべて正しいと受け入れた上で、もし子供も食べて満腹し、その子供が落としたパン屑を子犬が食べて満腹するのであれば、それは、神様の定めた秩序に反することでもなく、又、イエス様の使命を妨げることにもならない、と信じたことです。    この女性は、ユダヤ教指導者達にはないイエス様への純粋な信仰と、イエス様の沈黙にも耐えた、(助けてほしいとの)強い、真剣な願い、そして、救いの御計画の秩序を受け入れながらも神様の恵みの大きさを信じる信仰がありました。私達も、神様を絶対とし、自分の分をわきまえながら、日々働いて下さる神様の大きな恵みを信じて歩んでいきたいと願うものです。