「主の御計画と人間」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書 14:24-27 /nマルコによる福音書 14:27-31、66-72    /nはじめに     今日の聖書は、イエス様が旧約聖書の『<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう</span>』(ゼカリヤ13:7)との預言が、これから実現すると弟子達に告げられることから始まります。この言葉は、「天を広げ、地の基を置き、人の霊をその内に造られる主の託宣(お告げ)」(同12:1)です。 この言葉は、「罪と汚れを清める一つの泉が開かれる日」(同13:1)の出来事として記され、まさしく主の十字架と復活にかけてのことと思われます。 /n「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」  この言葉は、イエス様が殺される十字架を前にして弟子達が逃げ去ってしまうこととあまりにぴったりとあてはまります。ゼカリア書は続いて、「三分の一は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。」とあります。 /n滅びと救い  聖書では、「水による清め」と共に、「火による清め」が言われます。洗礼者ヨハネは、「イエス様は、聖霊と火であなた達に洗礼をお授けになる」と証ししました。清める「火」とは、神様から来る究極の「真理の光、熱」と言い変えることが可能であり、その全くクリアな光と、ものすごい高熱によって信仰者が照らし出され、その人の信仰が本物でない場合は焼き尽くされてなくなるのです。と同時に、そこを通過できた信仰者に対しては、「彼がわが名を呼べば、わたしは彼に応え『彼こそわたしの民』と言い、彼は、『主こそわたしの神』と答えるであろう」(同)と、主なる神様と人間が本来の交流ができるようになることを表しています。 「本物の信仰者」にまず必要なのは、神様と人間を遮断している「罪」の徹底的な悔い改めです。その上での信仰でなければ、神様の「真理の光、熱」に耐えるような「本物」にはなり得ないのです。 /nペトロの誓い  イエス様から、自分達が散らされて、信仰がつまずくと預言されても、一番弟子ペトロは「私はつまずきません」と否定しました。「鶏が二度鳴く前に三度私を知らないと言う」と言われても、「死なねばならなくなっても決して言わない」と誓いました。が、イエス様が捕えられ、裁判にかけられると、ペトロは、自分が罪人の仲間として刑罰や刑死を受けるかもしれないと恐れて、主を否認する決定的な言葉を吐いたのです。 /n主の御計画と人間  三度、イエス様を知らないと言った後に、二度目の鶏の鳴き声を聞いたペトロは、イエス様の御言葉が実に確実であり、イエス様は本当に神の御子として、人間の罪(弱さ・愚かさ)を知りながら、神様のご計画だけが実現することを言われたのを思い知りました。今朝の旧約聖書に、「万軍の主が定められれば、誰がそれをとどめえよう。その御手が伸ばされれば、誰が引き戻しえよう」(イザヤ14:27)とある通りです。これによってペトロは、自分の罪を知る、本当の意味を知りました。それでいきなり泣き出したのです。これが本当の罪の悔い改めをした証しです。  ゼカリヤの預言通り、自分の罪を本当に知るという「精錬」を経た者だけが、本当の「神の民」となれるのです。そのためにペトロは試され、それによって却って、罪の自覚が次元を越えて深くなるという神様のご計画が実現したのです。イエス様亡き後、教会の土台の岩となるために、ペトロはここを通らねばならなかったのです。イエス様に属する者として、自分の罪(弱さ・愚かさ)を十字架につけねばならなかったのです。  ルカ福音書では、否認はしないと言うペトロに対して、イエス様が、「あなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい。」と言われています。ここに神様の大きな憐れみ、愛を感じずにはおれません。そして聖霊の導きの下でイエス様を主と告白した者すべてに対しても、神様は同じ思いで導いて下さっています。私達はそのような神様の「救い」のご計画の内に入れられています。この時、この場において、信仰者としてふさわしい知恵と力と愛をいただけるよう、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。