「主の十字架と平和」  伝道師 平賀真理子

/nゼカリヤ書 9:9-10 /nエフェソ 2:11-22    /nはじめに     今日は、私達の主イエス・キリストのエルサレム入城を記念する日です。 エルサレム入城は、旧約聖書のゼカリア書9:9~10の預言の実現です。当時の王=支配者は、弱い者を強い力で支配し、軍隊で使われる「馬」を使用しましたが、ゼカリヤ書で預言される「王」は、弱い民衆の農作業や水汲みなどの家事で使われた「ろば」で入場します。ろばは、おとなしい性格であるため、柔和・謙遜を象徴するものと考えられていました。ゼカリヤ書は、神様から派遣される「王」は、柔和・謙遜な方であり、その象徴である「ろば」でエルサレムに入られること、その方からもたらされる本物の平和こそが、全世界に広がるようになると預言します。 /n大歓迎のあとに・・  ゼカリヤ書で預言された「王」とは人々が待望していた「救い主」です。イエス様が語られた福音の言葉や奇跡の業を通して、人々はイエス様こそ待望の救い主だと思ったのです。イエス様がエルサレムの町に入られた日、人々は服や木の枝(しゅろ)を道に敷いてイエス様を「王」として大歓迎しました。その5日後の金曜日、イエス様は十字架にかけられ殺されました。 /n敵意  殺されることになった直接の原因は,ユダヤ教指導者達の「敵意」でした。敵意こそイエス様を十字架につけたものです。神様は、イスラエルの民が最も貧弱な民であったゆえに、御自分の民として選び愛し、その証しとして「律法」を授けられました。しかしイエス様の時代のユダヤ教は、それを忘れ、律法を形式的に守ることを重要視しました。又、「選びの民」としての責任を果たすよりも「選び」を傲慢に受け取りました。イエス様が彼らを痛烈に批判(マタイ23:1~36他)したことや、民衆のイエス様人気に対する「敵意」から、ユダヤ教指導者達はローマの役人と、付和雷同的な民衆を焚きつけて、イエス様を十字架につけるように画策したのです。  彼らは神様の御心を聴くことより、自分達の権威の失墜を恐れたのです。                 /nこの世に対する勝利  イエス様は、福音を伝えていく生活の中で、彼らに時に厳しく、時には忍耐強く教えられましたが、最後は彼らのやり方に任されました。これこそ神様の勝利の方程式です。罪の子達のやり方に負けているように見えて、実はそれを越える「本当の救い」の業がこの世に繰り広げられることになったのです。十字架は最も残酷な刑罰の一つで、人間の知識から言えば、これに神の御子がかかることは明らかに敗北です。にもかかわらずイエス様は、十字架上の苦しみを忍耐され、神様のご計画に徹底的に従うという尊い犠牲によって、不従順を続けた人間達の罪のすべてに対して神様からの赦しをもたらして下さいました。これこそこの世に対する勝利の証です。 /n「十字架と復活」を信じる信仰  神様から選ばれたユダヤ人だけが救われる時代は終り、イエス様の「十字架と復活」を信じる者なら誰でも救われる時代になったのです。神様は聖なる方であり、人間が罪に染まった状態では交流できませんが、十字架による罪の赦しを信じた者は、聖なる神様と交流することができるようになり、本当の平和の状態に置かれるのです。 /n十字架と平和  今日の聖書では、エフェソのキリスト教会が、ユダヤ教からの改宗者と異邦人のキリスト教徒との間にわだかまりがあったことを伝えています。それに対して、双方が、イエス様の十字架に立ち帰れば、自分を縛っていた「敵意」や「罪」を、主が御自分と一緒に十字架上で滅ぼして下さり、一人の人間が新しく造られるように結び合わされて成長出来ることが語られます。現代の教会でも、年齢・性別・育てられた環境の違いなどから生まれる信仰の違いなど、「隔ての壁」による分裂が起こっています。  しかし私達は、今日の御言葉から、「主の十字架によって敵意を滅ぼされている恵み」に立ち帰る必要を知らされます。私達は等しく主の十字架によって罪を赦され、主の復活と共に私達も復活の恵みにあずかることが許されています。この一点で、教会は「平和の共同体」たり得ます。主の十字架による平和こそが、救いの出来事であり、神様の賜物であり、恵みです。              /n希望のない戦い 最初の「救いの計画」に入っていなかった異邦人の私達は、聖書で証しされているような神様のことを知りませんでした。そして、訳がわからないまま悪い思いに捕らわれている自分、望まない悪いことをしてしまう自分、又、自己中心的な思いをむき出しにしてぶつかってくる家族や周囲の人々、弱い者が強い者に平然と利用される社会・・・等の中で、希望を持てずに生き続けなければならない、希望のない戦いを一生続けていかなくてはならないと思ってきました。 /n福音を知らされて しかし、福音を知らされた後の私達は、希望のなかった状態から本当の平和の状態へ招き入れられ、復活の恵みに共にあずからせていただいたことが分かりつつあります。それは神様を知らなかった頃の、絶望とは逆の、「希望」の世界です。神様から遠かった私達が、神様の聖なる民へと変えられたのです。愛と柔和・謙遜のイエス様が、私達の所にも来て下さったのです!ここに魂の本当の平安、救いの真実があります!  /n「父なる神・子なるイエス様・聖霊」の働き 十字架の苦難を、私達の敵意や罪のために耐え忍んで下さり、それだけでなく、御自分の、勝利の復活の恵みを共有しようとして下さる神の御子・イエス様。世の初めから、人間を本当に救おうと徹底的に愛して働きかけて下さる父なる神様。私達が洗礼を受けてから今日に至るまで、イエス様を土台とする信仰を成長させるために、常に私達に働きかけて下さっている聖霊。ありとあらゆる方向から、私達は神様の恵みを受けています。完璧な救いによる完全な平和を与えられていることを心から感謝します。その恵みを、謙遜な思いを持って感謝して受け、それを讃美致しましょう。  今日の御言葉通り、主の十字架の犠牲によって、本当の救いや平和が与えられていることを心に留めましょう。受難週である今週一週間は、特に、主の御苦しみやそれにも勝る愛に対する感謝を覚えて過ごせるように、聖霊の助けを祈ってまいりましょう。