「主の主権と主の憐れみ」 伝道師 平賀真理子

/nエレミヤ書18:1-10 /nローマ書9:20-24 /nはじめに エレミヤは紀元前7世紀後半から6世紀前半にかけて、主(おも)にエルサレムで活動した預言者です。預言者とは「神の啓示を受け、神の名によって語る人」です。エレミヤ書はエレミヤの「召命」から始まります。エレミヤは、生まれる前から神様に選ばれ、生涯、神様が定められた「預言者」としての人生を歩み続けました。しかしそれは苦難の連続でした。 /n預言の実現 エレミヤが生きた時代、イスラエルの人々は「主」である神様を崇めることを忘れる人々が多く、神様はエレミヤに、多神教の神々ではなく本当の唯一の神であるご自分に立ち帰るように、人々に伝えることを命令されます。しかし、目に見えない神様を畏れることをしなくなった人々には、エレミヤの言葉は単なる人間の言葉にしか聞こえなくなっていました。又、神に立ち帰らなければ「滅び」が待っているとの審きの言葉は、人々には受け入れられないものでした。彼は、孤独な道を歩まされることになります。エレミヤは預言者としての使命を果たして語り続けましたが、結果として、イスラエルの民は「バビロン捕囚」という、祖国を追われ、敵国に連行され、不自由な生活を強いられるという悲劇を目の当たりにします。神様の御言葉は、更にエレミヤに臨み、「主が選んだ一部の人間は70年後に再び故郷に戻れる!」と伝えられます。エレミヤを通して語られた主の預言は、敵国の王の、本当に思いがけない命令で実現するのです。 /n主の主権 「悔い改めよ。そうでなければ滅びる!」との預言は、バビロン捕囚という形で実現しました。しかしそれで終わることなく、その後、「苦境からの解放」という希望の預言を、神様はエレミヤに語らせ実現されました。つまり、「神様がこの世に主権をもっておられる」ことを明らかにされたのです。 今日の聖書でも、「主(神)」の主権がはっきり示されています。エレミヤは、陶工が、「気に入らない作品」を作り直す様子を見て、「陶工」は、人間を創られた神「主」の比喩であり、材料の「粘土」は、人間やその群れとしての比喩であることを、はっきりわかったのです。主は「陶工」が気に入らない粘土を壊すように、今や、不信仰・不従順のイスラエル民族を壊そうとしていることを警告し、民が「悪を悔いる」ならば災いを思いとどまること、逆に、御自分が建てた王国でも、「従わない」ならば、幸いを与える予定を変更する権利を持っていることを告げられました。「主」が、この世のすべてに対して主権をお持ちなのです。私達はこの「主の主権」を忘れすぎているのではないでしょうか。 /n主の憐れみ 「主」が預言者を通して、何度も警告して下さっていることが、実は、主の「憐れみ」によるのです。主は、ご自分の選んだ民(イスラエル)の中から、悔改めて従う者を再び故郷へ戻ることが出来るとの希望を与え、その約束の実現へと導かれました。 さて今、私達は、東日本大震災を経験して価値観の転換という歴史の転換点にいます。神様なしの人間的観点だけで物事を進めていくことの限界を思い知らされました。政治の混乱・科学の限界・自然へのかかわり方など、人間の思い上がりで間違った方向に来ていました。私達が受けたきつい試練を通して、初めて人間は自分達の愚かさ・悪さに思い至り、神様なしでやれるとの傲慢さに気付き始めているのではないでしょうか。 今日読んだロマ書には、ユダヤ人でない私達「異邦人」にも、信じる者には「憐れみの器」として、神の民として召し出して下さったことが記されています。今こそ悔い改めて神様に立ち帰る時、神様はエレミヤに語った希望を、私達にも語って下さいます。神様を知る私達は、これ迄の人間の傲慢に基づいた価値観に迎合することから解放されて、神様の前にある人間として謙虚に生きる姿を示す時ではないでしょうか。 異邦人の私達に救いの道を開いて下さったのは、我らの主・イエス様の十字架による罪の贖いと、栄光の復活によってです。そのことに感謝し、主の御前に義しく歩むことができるよう聖霊の助けを祈りましょう。