「天の国について(2)」  牧師 佐藤義子

/n詩編104:24-35 /nマタイ福音書13:44-52 /nはじめに  本日も前回に続いて、天の国についてイエス様の教えを学びたいと思います。天の国と言う時、社会一般で使っている「天国」とは区別しなければなりません。聖書を通してイエス・キリストが私達に教えておられる天の国(神の国)は、神様が支配されておられる場所であり、神様がすべてのルールを決められており、人間が自由勝手に入ることは出来ません。イエス様は、どんなに門をたたいても開けてもらえなかった人々について、たとえで語られています。ですから私達は、礼拝を通して天の国について正しく学び、天の国に招かれている「神の民」の一員として、日々どのように歩んでいくかを示されていることに感謝するものです。  先週は、天の国について三つのたとえ(毒麦・からし種・パン種)を通して学びました。 /n「宝」と「真珠」のたとえ  今日の聖書には、さらに天の国について三つのたとえが語られています。最初は「宝」です。ある人が畑を耕していたら、くわの先に何かがぶつかり掘って見ると「宝」でした。背景として当時パレスチナでは、財宝を壺に入れて土の中に埋めることがよくされていたそうです。住んでいる所が戦場となり略奪から財産を守る為に、あるいは父親が埋めていたのを息子が知らぬまま相続してその土地を売り、新しい所有者が畑を小作人に任せていたというようなことが考えられます。この宝の発見者は、この宝を手に入れる為、自分の全財産を処分してこの畑を買うのです。二番目の譬えは、真珠の商人が良い真珠を探しており、ついに本物の高価な真珠を見つけました。彼はやはり全財産を処分して、この見つけた真珠を買うのです。 /n「持ち物をすっかり売り払い」  最初の人は努力せずに宝を見つけました。それに対して真珠の商人は、商売のためにあちこち探しあるいて努力して見つけました。共通しているのは、どちらも自分の持ち物を売り払い、それと引き換えに発見物を手に入れたことです。自分の持っている物すべてを処分することは大変なことです。それまで苦労して築きあげてきたものを手放すことは、勇気がいります。ところがこの譬えでは、どちらの人にも迷いはありません。むしろ喜んでいます。それほど発見物は価値があるのです。 /n譬えの意味  「宝」と「高価な真珠」にたとえられているものは何でしょうか。 これは、天の国のたとえですから、宝や真珠にたとえられているのは、神様の支配の中に入ること、神様の支配のもとで生きることです。もっと具体的にいうならば、天の国への道しるべであるイエス・キリストに出会い、イエス・キリストと共に生きるということ、そして永遠の命をいただき、神の国に入ることです。そしてこのことは大きな喜びを伴う出来事なのです。ただし、この大きな喜びのためには「それまで持っていたものを手放す」という行為(犠牲)が伴います。なぜなら神の国に入ることは、自分を神様の支配のもとに置き、神様のルールに従って歩み出すことですから、いままでの、自分を主人公とする生き方を捨てなければならないからです。  このことを恐れることはありません。自分をみればわかるように私達は頼りない者です。何が起こるかわからない世にあって、明日の自分のことを知ることは出来ません。大震災がそのことを教えています。 それに対して神様は全知全能であり、私の生と死を支配される方、わたしのすべてを知っておられますから、神様の支配のもとで生きることが出来るならば、私達には、何も恐れるものはありません。 /n魚の網のたとえ  最後のたとえは、網にかかった魚のたとえです。捕えられた良い魚は器に入れられ、使い物にならない魚は捨てられます。つまり、同じ網から、神の国に入る者と、そうでない者に分けられることを教えています。 以上、私達は2回にわたり、天の国について学びました。ここにおられるすべての方々が、学んだものとしてふさわしく行動し、これからもイエス様の教えに学び、神の国に招き入れられる道を、共に、確実に歩んでいきたいと心から祈り願うものです。