「神の国と神の義を求めよ」 ウェイド・マカーグ宣教師

/n マタイによる福音書6:33 /nはじめに 今朝は、マタイ福音書の6章の御言葉を御一緒に分かち合いたいと思います。御言葉には、何度も繰り返されている言葉があります。初めに書かれている言葉がつながっていく文脈の、その「読み解き方」があります。 たとえば、「愛」、「礼拝」、「従順」という言葉が一つの章に入っている個所があります。そして順番は、優先と大切さを表わしています。 /nアブラハム そのことは、創世記22章において、イサクを献げる準備をしているアブラハムの姿に見られます。「あなたの愛する独り子を連れて、私の命じる山に登り」(2節)。ここに、父と子の愛の関係を見ることが出来ます。愛の力です。聖書の中で最初に「愛」が語られるのはこの場面です。これは、最初の「型」となって、御父(神)と御子(キリスト)の関係を表わしています。その御父である神は、御子を送ってくださったほどに、この世を愛して下さいました(ヨハネ福音書3:16)。 「愛」ということの中に、「従順」ということが出てきます。私達は従うことなしに、「愛」を知ることはむつかしいことです。イエス様は、「私を愛するならば、私のいうことを聞きなさい」と言われます。 そこには「礼拝」も含まれてきます。私達の礼拝も、神様への従順な生き方を通して成り立ちます。礼拝も、私達の内から出る愛の表現を、神様に献げるというところにあります。このことについては、たとえば、イエス・キリストの生き方・生涯を見る中で見ることができます。イエス・キリストの生涯で最初に語られたメッセージは、最も大切であり、イエス・キリストが来られた理由が語られます。 イエス・キリストのメッセージはどういうメッセージだったでしょうか。 /nイエス・キリストが来られた理由 イエス・キリストが来られたのは、キリスト教をつくるためではありません。クリスチャンのためでもありません。最初の言葉は、「悔い改めなさい。御国が近づいた。」です。  御国というのは、神の国です。そこには主権者がおられます。民主主義ではなく、王を投票して選ぶということでもなく、王国に於いては、すべてが王のものであるということです。「自分の」家ではなく、「自分 の」車ではなく、「自分の」賜物ではなく、「自分の」家族ではなく、「自分の」時間ではなく、「自分の」体でもない。すべてが王に属します。すべてが王のものです。王の言うことを聞かなければ、反逆しているとみなされます。 主が来られたのは、御国に人々を迎え入れるためです。主イエスは、このメッセージを何度となく繰り返し語りました。マタイ福音書4:23にも「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣ベ伝え、ありとあらゆる病気をいやされた</span>。」とあります。6章の、祈りについて「<span class="deco" style="font-weight:bold;">御国が来ますように。天におけるように地の上にも</span>」(10節)と祈るように教えています。33節にも「<span class="deco" style="font-weight:bold;">まず、神の国を求めなさい</span>」と命じられており、9:35にも「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、病気をいやされた」と記されています。   /n二つの王国 マタイ12章には、二つの王国があるとの譬えがあります。26節には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。それではその国は成り立たない</span>」。そして28節に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている</span>」とあります。 「暗闇の王国・罪の王国」と「光の王国・聖さの王国」の二つの国です。キリストが地上に来られたのは、敵対する国(サタンの国)を滅ぼし、御国が前進していくためです。 コリント第二 5:20には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達はキリストの大使です</span>」と書かれています(リビングバイブル訳)。大使の役割とは、その国の代表として遣わされて来るということです。私がアフリカに居る頃、自分がしたくても したくなくても、私は、アメリカ合衆国の代表としてそこに居ました。アフリカでは、そこに居る人々にとって、私が初めてのアメリカ人として会う機会になっていました。私が国の代表としているならば、アメリカ人はこういう人だと印象付けられます。 しかし私達クリスチャンは、自国の代表という以上の責任があります。私自身の最も重要にしている優先順位は、アメリカの国ではなく、王の王であるキリストに、私は仕えているということです。ということは、私を通して御国を表わすということ。私は、私の王を印象づけなければならないということです。 そのことは、皆さんが共に負う責任です。人々が私達を見る時に、この人が天国の代表、天国人の生きかたであると見ますから、責任を持って生きなければなりません。そのことに私達が責任をもって歩んでいるならば、その姿が他の人達を引き寄せる力となるはずです。私達には、御国をこの世に現す機会が与えられています。それは御国をこの世の人々に見せていく、紹介することです。二つのポイントをあげたいと思います。 一つは、コリント第一 4:20です。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神の国は</span>(話の中の)<span class="deco" style="font-weight:bold;">言葉ではなく力にある</span>。」 御国は、対立を招くためにだけ来るのではなく、御霊の力を発揮するものとして来るのです。 /nインディアン伝道 私は現在、アフリカから拠点をアメリカに移し、ネイティブアメリカンと言われるインディアンに奉仕しています。これは、合衆国の歴史の中でも、最も悲惨な歴史の一つです。原住民の方々に対して、アメリカがした行為は、残念な結果を招いています。その結果によってインディアンの方々には、うつ的な(否定的な)要因が残っています。 現在、私が奉仕している地域は、カナダから南米までの地域の中で、二番目の貧困地域と言われています(タヒチの次)。成人男性の寿命は48歳とされ、アルコール依存症は80%、80%の人は失業中で仕事がない。又、私が10か月間滞在中、多くの若者が自分で自分の命を断つという事件が起こっています。この世の視点から見るならば絶望的な状況です。たとえ財政があっても、これを助けることは出来ないでしょう。沢山の カウンセラーが来ても皆を助けることは出来ないでしょう。何か特別なプログラムを組んだからと言って、助けることも出来ないでしょう。彼らに必要なのは、「御国」が彼らに来ることなのです。 なぜならイエス・キリストだけが人を変えることが出来るのです。 /n悪の霊との戦い 私は、より自分に戒めを込めて、その地域に入る時に神の国の代表であることを自覚して行きます。御父が御子にしたように、神の働きがその地域で どのようになされたかを見ることが出来るのです。しかし、簡単にたやすく見ることが出来るというわけではありません。多くの障害がある中でやっています。今、そこで、私の最大の障害となっていることは、私が白人であるということです。彼らにとって、私が白人である=「うそつき」という固定概念があります。インディアンとの長い歴史の中で、白人と交わした契約がうその契約であったからです。ですからその地域では、会う前から偏見と差別があります。私は、聖霊を本当に信じていかなければ、そして聖霊の力を通しての機会を見出していかなければいけません。それは聖書に書かれているように、私達は血肉の戦いに属しているのではなく(注:見える世界での戦いではなく、見えない)霊的な戦いの中にいるということです。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく、悪の諸霊を相手にするものなのです</span>。」(エフェソ書6:12) /n地域で起こったこと  ある日、ある家を訪問した時のことですに、その家の誰かが亡くなったということでした。そこは犯罪が蔓延している地域でした。  御国に属する者は、「恐れ」をもたないということが、先ずあります。もし私が恐れに駆られているならば、神の御国を代表することは出来ません。聖書にあるように、私達は「恐れの霊」を与えられているのではなく、「愛」と「力」、「平安で満たされている思い」が与えられています。 私はその家に入って行く時、女性が来ました。彼女の名前はメラニーと言いました。彼女は入るやいなやうずくまりました。どうしたのかと尋ねると、「私はいろいろな病気を持っている」と言いました。長血も患っていました。そして非常にやせ細っていました。二階に上がるにも四つん這いになってでしか上がれないと言います。そして毎晩、悪夢を見るという状況が続いていました。インディアンの方々の中には、霊的に敏感の方々がいます(いろいろなものが見える。寝る前に、窓の所にいろいろな顔がみえ、恐れにかられて寝られない・・など)。  もし私が御国の代表であるなら、この同じような状況が続くのではなく、何かが変わらなければならない。 私は「祈らせて下さい」と言いました。そして彼女の背中に軽く手を置きました。優しく語りかけました。そして「神から出ているものでなければ今、この場から去りなさい、イエス・キリストの御名によって」と祈りました。彼女の体は震えて動き出しました。そしてその場に倒れました。眼も白眼になりました。その時家族も驚いて来ました。私は、「これは霊的なものだ」と言いました。そこにいた悪霊が語りだし、私の祈りを阻止しようとしていました。私はイエス・キリストの名において、その悪霊が出て行くように祈りました。すると、息を吐くような形で白眼ももとに戻り、彼女は、自分がなぜ床に倒れているのかわからないと言いました。それから彼女は椅子に座り、「又、同じような状況に戻らないですよね」と私に確認を求めました。私は彼女に「戻って来ないですよ」と安心するように言いました。彼女は、自分の体を調べてみて、笑顔が戻りました。痛みがすべてなくなったからです。次の日、彼女を訪問をした時、彼女の顔は満面の笑みでした。彼女はこれまでになく、十分に熟睡しました。彼女は完全に悪の霊から解放されたのです。「御国」が彼女のところに来たのです。 別の家を訪問した時、「誰か病気の人はいませんか」と聞くと、歳をとった女性が来ました。腕が曲がっており、背中も曲がっていて、ゆっくり歩いていました。彼女は、体全体が痛いと言いました。彼女の腕を見た時に筋が固まっているのが見えました。ひじも普通より二倍に腫れていました。私は、私と一緒にいた友とお祈りをして、「神の御国があなたの家に来ましたよ」と言いました。祈っている間に何かが降り立ってきたように感じました。彼女は、痛みがだんだん無くなってきていると言いました。私達は二回祈りをささげて、彼女の痛みはなくなりました。しかし腕だけが硬直したままでした。又祈りました。するとゆっくりですが腕が動き始めました。又、祈りました。彼女の腕は全部動くようになり、腫れていた部分も完全に癒されました。   彼女は涙を流し、喜んで腕をいっぱい動かしていました。神の御国がその家を訪れたのです。私は、家にいた多くの人に「皆さんこれを見たでしょう。神の御国がこの家に来た証拠ですよ」と言いました。そして、「やがて裁きの日が来ます。自分達の人生において、自分のしたことの、申し開きをしなければならない時が来ます。あなたがたが神に対して罪を犯すならば、裁きの日にあなた方は必ず裁かれます。罪から離れなさい。そしてイエス・キリストの血潮によって、罪を洗い流されなさい。そしてイエス・キリストが三日目に復活したことを信じなさい。そして生まれ変わることが出来ると信じなさい。」と語りました。   語っていたそこに、20歳ぐらいの女性がいました。彼女は「私にはイエス様が必要です」と告白しました。 /n神の国の文化 神の御国についての、二つめのポイントですが、それは御国の「文化」があるということです。マタイ福音書5章6章、18章には御国について事細かく語られています。この世の教え・この世の方針とは違います。 たとえば、一番になりたい人は、最後にならなければならない。偉大になりたければ、皆に仕えなければならない。命を与えられたければ、それをなくしなさい。神に見ていただきたければ、隠れた所に行きなさい。心の清い者が神を見る。罪を満足させない。それは義に飢え渇いて求める人達は満たされるから・・など。 聖書には、御国について何度も同じことが繰り返されている言葉があります。ヨハネ福音書の13章には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる</span>」(34-35節)。 「互いに愛し合うならば」。これが、御国における中心となるものです。 エフェソ書5:21以下で、パウロは夫と妻の関係を、キリストと教会の関係に「型」として譬えています。私達がイエス・キリストに属しているならば、神の国は、神の力のみでなく、(教理ではなく)、「愛」が中心にあることは明らかになります。これは自然なことではありません。私達がへりくだる姿勢をとり、私達の兄弟姉妹達を支える。私たちよりも他の人たちを優先する。これこそが超自然なことなのです。   /nダスティのこと インディアンの方々が住んでいる場所において、彼らの信仰する宗教の中に、太陽に対する踊りがあります。その儀式では、木が用意され、飲み食いせず、四日間断食をします。そして彼らは、ビジョン(神からのメッセージ)を求めます。木からつるされているコードの先に針があり、それで自分達を刺す・・。それが、自分達を造り主(神)に献げているという宗教行為でした。この行為は、その部族の男性にとってはとても重要な儀式でした。この儀式の中心になっているのは、ダスティという人でした。 彼は白人を嫌っていました。白人がやってきた行為をすべて憎んでいました。私は、白人を嫌っているのだから、彼と関係を持たないようにしようと思いました。しかし私は、王の王(キリスト)に仕えているのだから、その事をこの人達に知らせなければいけないと思いました。 愛というものは決してあきらめない。私は、彼を愛し抜こうと決心し、愛し続けました。しかし、私が彼から感じ受けるのは、憎しみしか感じられませんでした。そのため私達は、神に従う者として、時に、それは大変困難なことでした。ある日、その村に向かって車を運転していました。突然その時、私の心にダスティに対する憐れみの心が生まれました。  見えて来たもの・ビジョンが与えられました。それは、私がダスティの前に、膝を屈めていることでした。それは、私が昔の白人のしたことを赦してほしいと懇願している姿でした。私自身、インディアンに何かし ているわけではありません。しかし白人として、白人がしたことに責任があるのです。 私はこのビジョンをいただいた時、「神よ、このことを、あなたがさせてくださらなければ大変です」と祈りました。なぜならダスティさんは有名な人で、いつもそばに人が沢山いました。しかし私が見たビジョ ンには、私とダスティさんの二人だけしかいませんでした。行った場所は学校のような所でした。二人になるのはむつかしいと思いました。 しかしながら、行った先で、第三者が突然いなくなり、私と彼の二人きりになりました。もういいわけは 出来ません。私は彼の前で、ひざをかがめ、神様の御心を感じ取ることが出来ました。涙が出ました。過去に白人がした行為を、ダスティさんの家族にしたことをわびました。 最初に彼のプライドが出ました。彼は「あなたには赦しを乞う権利はない」と言いました。しかし私は続けて言いました。「私は白人を代表して赦しを乞いたい」と言いました。すると突然、彼は静まりました。 何かがそこで始まっていたのです。その場から立ち上がる時に、何かがこわれ、崩れる感じがしました。霊的なものでした。それまで私に対して憎しみの顔で見ていたダスティの、何かが変わりました。彼はインディアンの中でも「長」とされている人でした。その時から、扉が開かれ、彼との関係作りが始まりました。 再び神様からビジョンをいただきました。それは、へりくだりの中から信頼関係が生まれるということです。   /nおわりに お祈りをもって閉じたいと思いますが、使徒パウロはエフェソの教会の為に祈りました。使徒達は、教会のためにどのように祈ったのでしょうか。 その高さと広さと深さのゆえに、神の愛を知ることができますように。神の愛は、私達の考えをはるかに越えるものです。私達が神の愛で満たされている時、私達は神の愛で完成され、完全になります。 この愛というものを通して、神の御国を人々に知らせることが出来ます。 教会が愛を知って、愛の共同体になる時に、言葉だけでなく、行動をもって。そこには神の御国が降り立ち、そこに神の国が明らかになります。 イエス・キリストのもとへと多くの人々が引き寄せられてきます。  それは、キリストの体である「教会」の美しさを知るからです。 キリストの体とは、この教会をあらわします。もちろん体の美しさを知るならば、頭(かしら)であるイエス・キリストを求めます。 そして、イエス・キリストを自分達のものと願う人達が現れます。 皆さんと一緒に、心から祈ります。 その祈りの中に、神の御国の大使として下さいと祈って欲しい。 神の御国を代表する良き大使となるように。 それを通して、御国がこの地上に、私達の内に表わされますように、力を持って、愛をもって。 求めるならば、必ず与えられます。 皆様に懇願します。神の愛を求めて、祈り、それを受けてください。  _______________ <祈祷> 恵み深い天のお父様 主イエス・キリストの御名を通し、感謝申し上げます。神の御国の民とされていることを感謝致します。そこには大いなる責任も伴いますが、主よ、どうか私達の生き方を通し、あなたが、ほまれを受けることが できますように。もし、私達の歩みの中で、私達が良くない歩みをしたならば、どうか、それをゆるしてください。そして私達の、隠れている部分から明らかにされている部分に至るまで、純粋の愛の生き方が出来ますように。職場においても、家庭においても、同じような強い生き方ができますように。どうか私達の心を愛で満たしてください。 あなたの愛を広く深く知ることができますように。あなたの愛で、私達の心を満たして下さい。私たちがこの世に対し、あなたの弟子であるということを知らせることができますように。 イエス様が、私達の模範となってくださったことを感謝いたします。 私達は、あなたを愛するということを告白します。あなたを讃美します。 主よ、この時を感謝します。あなたの御言葉を感謝します。 又、御霊が私達の内に備わっていることも感謝します。 私達が神の家族であることも感謝します。 アフリカ・日本の隔たりがなく、私達が神の家族に属していることを感謝します。 私達の文化が、御国の文化でありますように。それが、愛の共同体でありますように。 主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン