「キリストの捕縛」    伝道師 平賀真理子

/n詩編22:13-24 /nマルコ14:43-52             /nはじめに  エルサレム郊外の「ゲツセマネ」という場所で、イエス様は父なる神様に、これから起こる苦難を出来ることなら避けさせて下さいと祈られました。しかし三度祈っても、その苦しみこそ,避けて通ることは出来ないとの神様の御声を聞かれたのでしょう。人々の罪を、御自分の命を捧げることで肩代わりするという「贖い主(あがないぬし)」としての使命こそが、神様の御心であるという思いをいよいよ強くされて、この後は、敢然と決意されて、十字架への道に赴くイエス様の姿が示されていきます。 /n祭司長・律法学者・長老たち イエス様から「裏切る者」と呼ばれた弟子のユダと、彼と共に結託して(というよりむしろ、その後ろで糸を引いていた本当の「罪人」である祭司長、律法学者、長老達)、イエス様を亡き者にしようとした人々が、今日の聖書に、具体的に書かれています。彼らはエルサレム神殿で礼拝を司る者、律法を人々に教える者、議会の議員など政治的にも力を持つ有力者達で、ユダヤ社会を支配していた人々です。しかしこの時「罪人イエス」を逮捕しに来たのは彼らの手下の者達でした。更に辛いことは、その中に、イエス様が選ばれた「12使徒」の一人である「イスカリオテのユダ」がいたことです。イエス様に従い、宣教の旅を共にしたユダ。彼は財布を預かっていました。信頼のあつかった彼がイエス様を裏切ることの残酷さを思い知らされます。 /n逮捕  時は夜。逮捕のため来た人々は、幾らかの明かりは持っていたでしょう。それでも誤認逮捕の可能性も考えたかもしれません。ユダは接吻を装いながら、暗闇の中でイエス様を捕まえて当局に確実に引き渡す役割を買って出たようです。本来「接吻」は相手を好ましく思う感情表現です。それを悪用し、心は「裏切り」という悪意に染まっていたのです。それこそ「罪」が、「罪深い」ことの一つの姿です。悪ければ悪いまま表わすことの出来ない人間の弱さ(サタンに付け込まれる弱さ)がそこにあります。 /n神様の御心を知って受け入れる イエス様は既に、ご自分が受けられる苦難をご存知でした。しかし、捕らえに来た人々は抵抗にあうことを恐れて、剣や棒を持ってきました。人間達は暗闇の中の大騒動に惑わされました。只イエス様お一人だけが、御自分のことより神の御心である「聖書の言葉の実現」を宣言されます。 /n聖書の言葉の実現 イエス様は御自分の道が、イザヤ書53章に預言されている「苦難の僕」としての歩みであることを知っておられました。それ迄のユダヤ人が考えていたような、「栄光の救い主」としてではないことを分かって歩んでおられました。この夜、「弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げて」しまいました。人々は、イエス様についてきた一人の若者まで捕らえようとしました。イエス様逮捕の様子は、緊迫した恐ろしい状況だったことを知らせるものです。弟子達やその親派など人間は誰一人、その状況を乗り越えられるほど強くなかった・・。ただ神様のご計画の重大さを知る御子イエス様だけが、その場を乗り越えることができた。 神様の御心を尋ね求めることをせず、ただ目の前の出来事を恐れて、場当たり的に混乱して取り乱す人間と、神様の御心を知って、受け入れる覚悟のイエス様の姿・・。実に対照的です。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる</span>。」(マタイ5:3) カラヴァッジョという画家がこの場面を描いた「キリストの捕縛」という絵があります。かつてこの絵の所有者であった女性は、警察官の夫が、無実の罪で、暴徒に殺されるという悲劇に見舞われました。彼女の深い悲しみと落ち込みから彼女を救ったのは、この絵に描かれたイエス様の姿でした。 イエス様が深い悲しみにある人々を慰めることがお出来になるのは、御自身が深く悲しまれたからです。悲しみにある者達が、主を呼び求めることを神様は求めておられます。私達は主イエス様に呼び集められた者達です。主が共にいて下さることを感謝し、この世での苦しみ・悲しみ・悩みを祈りの中で主に叫び、今週も聖霊の助けを祈ってまいりましょう。