「罪人たちによる裁判」 伝道師 平賀真理子

/n ダニエル書7:13-14 /n マルコ14:53-65           /nはじめに  イエス様はユダの裏切りによって反対者達に引き渡されましたが、うしろで操っていたのは、宗教的権威をもつ人々であり、最高法院議員という政治的な権力を持つことができた「祭司長、律法学者、長老達」でした。彼らは「安息日の遵守」や「罪人達との交際による汚れを避ける」など、律法を大切に守り、又教えました。「律法」は、神様の御意思を示すものですが、彼らはそのことを忘れ、「形を守る」こと、すなわち、本質よりも目に見えるものにこだわりました。 それに対してイエス様は、「神様の愛」という本質を語り、神様の愛と力の表れとしての「奇跡」も行われました。彼らはイエス様と自分達との優劣を比較し、その結果嫉妬し、相手を亡きものにしようとしました。今日の聖書は、彼らが自分達の念願通り、「イエスを殺す」ことを決める箇所です。 /n裁判 彼らの心の奥底は、イエス様に対する嫉妬と憎悪の感情で満たされていました。けれどもそれを、正当な法的手段で包み隠そうとして裁判を開きました。裁判は通常、大事な祭りや大事な安息日には開かれません。この時は大事な過越祭でした。又、通常、夜は開かれません。この裁判は夜、行なわれました。裁判の場所も、大祭司の私的な邸宅の一部である庭でした。さらに、裁判では「証言が食い違った」(59節)とありますが、証言は細かい所まで一致しなければ、その内容は有効とされないのだそうです。刑の執行についても違法でした。死刑執行には、一日は必ず置くことが決められていましたが、イエス様の場合、数時間後に刑が執行されています。 /n沈黙の中のひとこと  裁判における数多くの証言は、どれも決定的なものではありませんでした。イエス様ご自身も、虚しい証言の一つ一つには沈黙を守られました。しかし、大祭司の、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という問いには、敢然と肯定の返事をされました「わたしがそうである」と。 「自分は神の子である」と言うことは、ユダヤ社会では神様への最大の冒瀆と考えられていましたし、イエス様も、その言葉でご自分が死罪になることは分かっておられました。それでもこのことを否定したり、曖昧にしたりすることはなさいませんでした。偽証は罪だからです。 /n判決 それに引き換え反対者達は、自分達だけでなく人々にも偽証するよう求めたのです。人を罪に誘導し、罪の仲間に引きずり込む・・、これも罪人の典型的なパターンです。 今日の旧約聖書(ダニエル書)にある「メシア」の姿は、大祭司達にもよく知られていました。イエス様が、御自分をメシアとして証言された言葉を聞き、大祭司は衣を引き裂いたとあります。これは宗教的な汚れ(神への冒瀆)を体験したことの、最大の怒りや嘆きの表現です。この直後、大祭司は「死刑判決」を下しました。 /n「唾をはきかけ、こぶしで殴りつけ、平手で打った」 判決後、イエス様に対して暴力が行われました。この世の権威の下にいる人々が、有罪とされた「弱い」者には力を用いて相手の尊厳を傷つけても許されると誤解したからです。何が真実かではなく、日頃、虐げられている自分のうっぷんをはらす人間の弱さ愚かさを知らされます。 /n十字架の背後には罪の赦しと神様の愛 このような反対者達や部下達の罪深さを見る時、自分の中にも同じような弱く愚かで自己中心的な罪を見つけます。この私達人間の罪を背負い、その罪が赦される為の犠牲として、イエス様は罪人達による裁判で苦しまれ、屈辱的な十字架の死を孤独の中で遂げられました。その歩みの過酷さを思います。しかしイエス様は、父なる神様の前に従順に従い続けた結果、「復活」の栄光を与えられ、信じる者達には新しい信仰と、信仰の共同体である教会が与えられることになりました。十字架は私の罪のため、しかしそれはその先に神様のもとでの、本当の人間としての祝福を、神様が私達に与えたいと願われておられるからです。 今週も、神の国の民として歩めるように、聖霊の助けを祈り求めましょう。