「異邦人の問い」 伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書53:7-10 /nマルコ福音書15:1-5           /nはじめに ユダヤの最高決議機関である最高法院が、イエス様の死刑を決議したのは真夜中であり、しかも大祭司の私邸で行われたもので、「公的」とは言い難いものでした。そこで議員達は、夜明けとともに最高法院を公的に開いて、捕まえたイエス様を確実に死刑にすべく、ローマ帝国から派遣されていたユダヤ総督のピラトに、その身柄を引き渡したのです。 /nピラト  私達は礼拝で毎週、「使徒信条」の中で「…主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ…」と告白します。ピラトはローマから派遣された第5代ユダヤ総督として、その在任はAD26年から36年迄との記録が残っています。当時の信徒達にとり、ピラトはイエス様の処刑を許した異邦人として、はっきりと記憶されていたのでしょう。私達信仰者は、ピラトのもとで実際に大変な苦しみを受けたイエス様の、裁判の屈辱と十字架の苦痛を実感として受け取ることができます。 /n「お前がユダヤ人の王なのか」 ピラトのイエス様に対する質問は、「お前がユダヤ人の王なのか」です。異邦人であるピラトにとっては、おそらく最大の関心事である「権力を握る」こと、つまり「王となる」意思がイエス様にあるかどうかが気になります。今、イエス様が、ローマ帝国の支配を打ち倒して、新しくユダヤの王権を立てるつもりなのかを聞いているのでしょう。もしそうであれば、ローマ側から見て、死刑に値する罪として裁くことができます。 /n「神の国」の王 イエス様は、神様が選んだイスラエル民族の「救い主」として、この世に来られました。イエス様は神の御子であり、神の国の「王」であられますが、異邦人が言う「王」とは全く違います。異邦人が理解するには難しいすれ違いです。(参照:ヨハネ18:36「わたしの国はこの世には属していない。」) /n「それはあなたの言っていることです」  ピラトは、この世の考え方で、イエス様を「ユダヤ人の王なのか」と聞きましたが、律法や神の御心を考えないで生きる異邦人と、神を信じるイスラエルの民の土台が違います。「それはあなたの言っていることです」。これがイエス様の返答です。異邦人ピラトの発した質問に、神の御子イエス様は、相手に合わせる形での返答をされませんでした。 /nイエス様の従順 イエス様を正しく理解できなかったのは異邦人だけではありません。イスラエル民族が待望する「メシア=救い主」は、外国人支配から自分達を解放する政治的な強い「王」を期待しましたから、イエス様を「メシア」として受け入れることは出来ませんでした。イエス様も御自分の「救い主」としての使命が「苦難の僕」(イザヤ書53章)であり、彼らの意識と全く違うことも御存じでした。彼らはイエス様のお話や奇跡を見聞きしながらも、自己保全のためイエス様を殺したいとの感情のとりこになっていました。その彼らの不利な訴えに対してイエス様は弁明せず沈黙を守り続けました。それは、イエス様が苦しみ死ぬことにより、すべての人の罪の贖いをさせるという父なる神様の御心が既に示されており、イエス様は「それに従うのみ」との決断をされていたからです。一方、ピラトにとって弁明の機会が与えられているのに弁明しないのは常識を越えることでした。ピラトは沈黙されるイエス様に、「何も答えないのか」と不思議に思った、と聖書は伝えています。 /nイエス様の歩まれた道 イエス様の十字架への道は、確かに神様の示された「苦難の僕としての救い主」でしたが、それはいかに苛酷であり孤独であり耐えがたく、無念であったことでしょう。私達信仰者も、信仰ゆえに理解されず、考え方の違いで責められることがあります。黙って耐えることしかできないと思える時があります。その困難な時こそ、孤独の中を黙って耐えられたイエス様が自分を支え、苦難を共に歩んで下さり心に入って下さいます。心の中に主の姿をますます刻みつけ、今週も聖霊の助けを祈ってまいりましょう。