「目を覚ましていなさい」 牧師 佐藤 義子

/n詩編36:2-10 /nマタイ福音書25:1-13           /nはじめに ユダヤの結婚式は、この時代、夜から始まっていたということで、花嫁は友人達と自宅で待機し、花婿が迎えに来るのを待ちます。花婿が花嫁の自宅近くまで来ると、花婿の友人達が先触れとして、花婿がきたことを大きな声で触れ廻ります。その声を聞き、花嫁の友人達は途中まで花婿を迎えに行き、花嫁のところに案内し、その後、花婿と花嫁は友人達と一緒に、今度は花婿の家に向かい、そこで結婚式と祝宴が行われたということです。夜道を歩くのになくてならないものが、「ともし火」(ランプ)でした。 /n「その日、その時を知らないのだから。」 このたとえ話は、花嫁に付き添う10人のおとめ達に光をあてています。10人共、自分達は祝宴に招かれて出席出来ることを信じて疑わなかった人達です。しかしこの内の5人のおとめは、祝宴の喜びに加わることは出来ませんでした。花婿の到着が遅れたことにより、おとめ達は待っているうちに眠気が襲い、皆眠ってしまいました。花婿の友人達の呼び声で目を覚ました時には、おとめ達のランプの油は切れかかっていたのです。夜道はランプなしでは危険で歩けません。5人のおとめ達は予備の油を用意していたので素早く準備を整えて、花嫁と共に迎えに来た花婿の後に従って祝宴場所へと向かいました。しかし他の5人のおとめは、油の用意がなく油を買いに行かねばなりませんでした。その間に、祝宴場所の扉は閉められ、後から「開けてください」と頼んでも、扉の向こうからは、「わたしは、おまえ達を知らない」という声が返ってきただけでした。 /n譬えの意味  この譬え話は天の国の譬えです(1節)。花婿とはイエス・キリストのことです。10人のおとめ達は、私達のことです。信じる者はすべて天の国に入れると考えている者達に、イエス様は入ることが出来る「賢い、思慮深い者」と、入ることの出来ない「愚かな、思慮の浅い者」に分かれることを警告している、大変重い譬え話です。 /n油は分けてもらえない  愚かな、思慮が浅いおとめ達は、ランプには燃やす油が不可欠であることを忘れている人達のことです。自分達のランプの油が消えかかって、はじめてことの重大さに気付き、あわてて予備の油を用意していた思慮深いおとめ達に助けを求めました。が、断られています。油を入れる壺には持ち主の分しか入っていないからです。その油とは、御言葉を聞いて悟ることです。御言葉には力があります。私達が、聞いた御言葉を受け入れて、信じる時、私達の内に働いて力となって私達の生活の原動力となり、又、私達自身を変えていく力となります。しかし「<span class="deco" style="font-weight:bold;">御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る</span>。」(13:19)とイエス様は警告しています。 /n「だから目を覚ましていなさい」 イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だから目を覚ましていなさい</span>」(13節)と言われます。 ここでは、ともし火を灯し続ける用意の出来ている状態を「目覚めている」と言われます。私達は神様を信じイエス様を信じて、聖書に書いてある通り、イエス様が再び来られることを信じて待ち望んでいます。そうであるならば、イエス様がいつ来られても、いつでも迎えられる用意が出来ている「賢い、思慮深いおとめ」として毎日を生きているのか、そのことを真剣に考える時を、今日、与えられています。 /n「今や、恵みの時、今こそ救いの日」 感謝すべきことは、扉はまだ閉められていないということです。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">今や、恵みの時</span>」とは第二コリント書の言葉です(6:2)。イエス様は、世の思い煩いや富への誘惑、困難や試練などが、私達に予備の油を忘れさせる要因として、種まきの譬え(13章)で教えておられます。今なら予備の油を用意出来る恵みの時!です。私達は毎週の礼拝にしっかりつながり、御言葉を聞いて悟る、賢い者として歩んでいきたいと願うものです。