「神の愛」 倉松 功 先生(元 東北学院院長)

<span class="deco" style="font-size:large;">宗教改革記念礼拝</span> /n詩編53:2-6 /nマタイ福音書9:13           /nはじめに 私達の教会は、プロテスタント教会です。カトリック教会は、ローマ教皇を立てて出来た教会ですが、プロテスタント教会というのは、当時の堕落したカトリック教会から離れて、「聖書に帰った」キリスト教であるということが出来ます。プロテスタント教会は、宗教改革によって始まりました。1517年10月31日に、ルターが95カ条の問題提起をヴィッテンベルク(ドイツ)のお城の付属教会の扉にはりつけました。95カ条の問題提起の、一番の中心点にあったのは、カトリック教会が発行した贖侑券(しょくゆうけん) の問題でした。 贖侑券(しょくゆうけん)は、カトリック教会が 第一回の十字軍を召集するのと同時期に出された「木の札」又は「紙札」のことで、最初の頃は、それを買うことによって自分の罪をつぐなうことが出来ると言われていました。しかしルターの時代になると、日本で「免罪符」として知られているように、罪のつぐないにとどまらず、「罪を赦す」ことにまで発展しました。しかも現世の罪だけではなく、煉獄(れんごく*注)にいる者の罪を赦す、と説いて人々に売っていたのです(お札を買うお金を箱に入れると同時に、魂が天国に昇る)。そのような「贖侑券」を売っていたことに対して、ルターは、「罪を赦すことが出来るのは、キリストだけであり、教皇でさえも出来ない」と主張したのです。その時以来、カトリック教会からのルターへの尋問と、それに対する討論が繰り返される内に、ルターが問題提起した内容は拡がり、明確になっていきました。それから三年後、今度は、カトリック教会がルターに対して、41の誤りを指摘して、その誤りを撤回しなければ破門し、教会から追放すると言ってきました。ルターはその指摘に対してくわしく反論し、自分の考えは殺されても撤回しないということから、ついにルターはカトリック教会から破門、追放されました。  しかしこの討論の中で語られた内容は、ルタ-だけではなく、ツヴィングリやカルヴァンといった宗教改革者達も、カトリック教会に対して、同じ主張をすることになり、さらに拡大していったのです。  *注 煉獄(れんごく):カトリック教会の教理。罪の償いを果たすまで、霊魂が苦しみを受けて浄化される所。 /nルターの主張 討論の中で、ルターは、「人は、信仰のみによって罪が赦される。信仰は、神の恵みによって与えられる。『<span class="deco" style="font-weight:bold;">誰も、聖霊によらなければ、信じることは出来ない</span>』(第一コリント12:3)」と語りました。 「信仰義認」とは、キリストを信じ、キリストに信頼することによってのみ救われる。すなわち、キリストのゆえに罪が赦されて、神によって義しい(ただしい)と認められることです。これが、宗教改革者達の共通の旗じるしとなり、拠り所となりました。 ロマ書3:28に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は、・・イエスを信じる者を義となさる</span>」とあります。ルターもツヴィングリもカルヴァンも、宗教改革者達は、共に、「信仰によって義とされる」(信仰によって救われる)と言ったわけですが、それは自分で発見したのではなく、聖書に帰り、聖書を学んで、そのことに達したのです。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ロマ10:17)とあるように、聖書の御言葉を聞いて信仰に気付かされる、信仰を呼び起こされるということです。「信仰によって義とされる」ということは、私達の罪が赦されて義とされること。その為に神は、御子キリストを世界にお遣わしになって、キリストを十字架につけて犠牲にされる、それによって、その償いによって、私共の罪を赦して義とする、という手続きをとられたわけです。何で神様はそのようなことをなさったのか、私共にはなかなかわかりません。そこで今日は、神は、なぜそのようなプロセスを経て、そのことをなさったのか、そのことについて聖書から学びたいと思います。同時に、そのことについてルターが語っていることがらを、思い起こしてみたいと思います。 /n神の愛・・「キリストが十字架につけられた」 今朝、招きの言葉「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ福音書9:13)を読んでいただきましたが、この言葉も重要なキリストにおける「神の愛」の表現だと思います。その神の愛について、学んでみたいと思います。 1518年、ハイデルベルク(ドイツ)に於いてルターは「神の愛と人の愛」について発題しました。神の愛は「アガペイ」、人の愛は「エロース」です。ルターは、「人の愛」は 人を外から見て起こる(生じる)ものであると語りました。たとえば、相手が語る思想や宗教、考え方、容貌、立ち居振る舞い、趣味等を見て相手を好きになったり愛するようになるのであり、相手を愛する愛は自分にとって好ましく、自分にとってプラスであるという「相対的な(比較できる)」愛であると語りました。相対的な愛ですから、更にもっと良い人が出てくれば、そちらを愛するということになります。 それに比べて「神の愛」は、見て生じたり、感じて生じる、あるいは判断して愛する愛ではありません。神は罪人を招く。神の愛は、悪人を良い人に変える愛であり、罪人を赦す愛であり、「人の愛」とは180度違います。この愛は、「犠牲愛」「贖罪愛」と言われたりしています。人間は、自分にとってプラスになる人を愛しますが、神の愛は、罪人・悪人を愛する。罪人を変えていく。そういう形で神の愛は起こる。これが「罪人を招く」というキリストの言葉に表れています。神の愛はキリストにおいて具体化されています。大事な事柄は、キリストが、それを具体化して語り行ったわけですが、その行いの中に、キリストご自身が十字架につけられる。そういう手続き、そういう贖い(あがない)、つぐないの業(わざ)をキリストご自身がなさった。そういうふうに父なる神は、キリストを用いられたということです。これは大変なことです。 /n罪を赦して義とする ルターは、ゲッセマネでキリストが、「死ぬばかりに悲しい」(マタイ26:38)と、苦しみもだえて祈られた(ルカ22:44)祈りの中で、キリストは、私達が不条理だと思っていることを、私達に代わって涙を流されていると、言いました。人間の無理解、人間の苦しみを、キリストがゲッセマネで代わって下さっている。まさにここに「キリストが私達に代わる」ということの、ルターの、非常に深い理解がそこにあるように思います。神は、キリストを犠牲にすることで、人々の罪を赦して義とする、「義と認める」ことをなさいました。「義と認める」ということで、宗教改革者達が言った大切なことは、私共が「義」となって認められるわけではありません。私共が義しい(ただしい)と認められるということは、キリストが犠牲となっておられるわけですから、そのキリストの義を通してしか認められない。(キリストは「唯一の、救いを必要としない義人」であり、キリスト以外、神から義と認められる人は誰もいない)。キリストを信じることによって「義」が与えられる。「義」が私共のものになる。といっても私共が、キリストと同じように100パーセント「義」となっているわけではない。そのことを常に、改めて、聖霊の助けによって自覚する。御言葉によって自覚する・・。これが、私共ではないかと思います。「義と認められる」という「義」は、キリストがもっておられる「義」のことです。  このことを、「神の愛」の関連でみてみたいと思います。 /nヨハネの手紙一 4:8-11。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">愛することのない者は神を知りません。神は愛(アガペイ)だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛(アガペイ)があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです</span>。」 「信仰によって義とされる」、そのことの背後にキリストの十字架があります。その十字架こそ、「神の愛」なのです。 聖書は、そのように言っています。