「救いの約束」     牧師 佐藤義子

/n出エジプト記6:2-13 /nヘブライ11:23-29           /nはじめに  モーセが生まれた時代、イスラエルの民はエジプトの国で厳しい重労働のもとに置かれながらも、人口が増え続けたため、エジプト王は脅威を感じて、生まれて来る男の子をみな殺すように助産婦に命じました。しかし神を畏れていた助産婦は男の子でも殺さず、モーセの両親は赤ん坊を3カ月間、隠して育てました。隠しきれなくなったので、籠の中に生まれた男の子を入れ、ナイル河の葦の茂みの間に置きました。子供を見つけたエジプトの王女はふびんに思い、モーセと名付け、息子として育てました。 /n「信仰によって」  今朝読んだヘブル書11章は、信仰によって神様に認められた旧約聖書に登場する人々について語られています。その中の一人が「モーセ」です。モーセについて聖書は五つの出来事を取り上げて、信仰がどのように働いたのかを伝えます。 第一に、モーセの両親は「信仰によって」、王の命令を恐れずにモーセの命を守ったこと。 第二に、成人したモーセが、自分がイスラエル人であることを知った時、「信仰によって」エジプト王女の息子として生きる道を捨て、神の民であるイスラエルの民として生きる道を選んだこと。 第三に、モーセが神様から与えられた使命「イスラエルの民のエジプト脱出」を果たす為に、「信仰によって」エジプト王との交渉のすべてを成し遂げたことです。国の最高権威をもつ王を怒らせたら自分の命はないことを承知で、王を恐れなかったことです。それが出来たのは、信仰によって「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいた」からだと聖書は伝えています。 第四に、エジプト脱出直前に神様が起こされた災いの最後に、最初に生まれた子供が死ぬという災いがありましたが、イスラエルの民は、その災いから逃れるために、神様から教えられた通り、小羊の血を鴨居にぬることによって免れることが出来ました。これも信仰による行為です。 第五に、モーセに導かれたイスラエルの民が、陸地を通るように紅海をわたった奇跡も、「信仰によって」なされました。 /n神の民と共に虐待される道を選ぶ 今朝は特に、二番目の、モーセが「信仰によって」王女の息子として生きるのではなく、ヘブライ人として生きる道を選んだことに焦点をあてて学びたいと思います。モーセは、富、権力、名声というこの世で価値あるものとされていたものを捨て、自分の同胞と共に生きる道=「唯一の神を信じる神の民」として生きる道=虐待される道を選びました。その理由を聖書は、「キリストのゆえに受けるあざけりを、エジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです」(26節-)と伝えます。なぜなら、この世の価値観で生きることは、何も残らず、何の報いもないことを知ったからです。この世の幸せは過ぎゆくものであり、自分を楽しませる罪ある生き方は、最後は死で終ります。モーセが選んだ道は苦難の多い道でしたが、しかしその道の向こうには、神様が下さる報いが約束されていました。神様から与えられる報いは、この世のものとは違い、目に見えない世界に属するものです。それは、神様が直接支配される神の国に入ることを意味します。伝道者パウロは、ロマ書の中で、「現在の苦しみは、将来私達に現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと思う」と言っています。 /n救いの約束のもとで生きる 信仰とは神様への絶対信頼、絶対服従です。そこに、神様から命を与えられた人間の、本当の平安があります。目に見えない神様は、御子イエス様をこの地上に送って下さり、目に見える形で神様を現して下さいました。神様を絶対信頼する時に、私達もモーセのように神様以外に恐れるものはなくなり勇気が与えられ、この世の価値観から離れて何が本当に価値あるものかを知らされます。信仰によって、私達は、見える世界だけでなく見えない世界に目を向け、神様が与えておられる「救いの約束」のもとで、神の国の民の一員として歩むことが出来るのです!