「少年のイエス・キリスト」 牧師 佐藤義子 

/n詩編34:2-11 /nルカによる福音書2:41-52        /nはじめに イエス様の両親として神様から選ばれた父ヨセフと母マリアが、与えられた使命をどのように受け入れていったのかについて、聖書は伝えていますが、少年時代のイエス様については今日の聖書の箇所以外にはどこにも記されておりません。ただすぐ前の40節に「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」とありますから、イエス様は両親の愛情を受けながら、神様についても両親からしっかり教えられ、神様からの恵みが豊かに注がれる中で、神様を愛する子供として育っていかれたことを想像することができます。イエス様が、神の御子として生まれた「しるし」は「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」でした。今日の聖書も、それに続く「御子のしるし」の出来事といえるでしょう。 /nエルサレム神殿での出来事 ユダヤ人の男子は12歳になるとイスラエルの民の共同体として神様への奉仕の義務が与えられ、旧約聖書で定められた「戒め」に従う生活を 始めることになっていました。両親が、12歳になったイエス様をエルサレム神殿に連れていかれたのはそのような理由からです。この時イエス様は初めて、共同体の一人として神殿に入り、祭壇の前に立ち、又、過越しの祭りの食事をされたことでしょう。しかし聖書はこの時の過越祭については触れずに、祭りが終った後、大群衆の移動の中で両親が息子を見失ってしまったこと、そのことに気付いて二人が親類や知人の間を捜し回り、見つからないまま、捜しながらエルサレムに引き返したことを伝えています。 /n再会 両親がイエス様を見つけたのは三日後のことでした。神殿の境内で学者達と話しをしていました。ずいぶん時間が経過しています。その間の両親の不安と心配を考えれば、母マリアの言葉は当然といえます。 「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。しかし、イエス様の返事は思いがけないものでした。「どうしてわたしをさがしたのですか。わたしが父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 /nイエス様の言葉の意味 「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」(49節)と、あります。イエス様がエルサレムの神殿に残っていたのは、神殿の中庭や広間にはいつも教師がいて、弟子達に囲まれながら教育をおこなっていたので、イエス様はその中に交じって話を聞いたり質問したりすることが出来たからです。そのことはイエス様にとってどんなに楽しい時となり、又、そこで学ぶことこそ、神殿に来た御自身の目的であり責任であると思われていたかもしれません。神殿には旧約聖書の巻物がすべてそろっていて、12歳のイエス様にとって、たくさんの質問の答えを聞くことが出来る貴重な学びの場となっていたに違いありません。イエス様はご自分を捜し回っていた両親の心配を聞いて、自分の居場所はここしかないのに、何でそのように捜しまわられたのですか・・と、逆に驚いたのでした。 /n「父の家」 イエス様は「神殿」のことを「父の家」と呼んでいます。イエス様が父である神様と強いきずなを持ち、イエス様御自身、イスラエルの成人男子としてこれから何をなすべきかを聖書から(=神様から)聞けるこの神殿は、「父の家」としてイエス様を引きとめる力が働いていたことでしょう。 私達はここに教会の礼拝の喜びの原点を見ます。神様を礼拝出来る喜び、聖書を知り学べて、神様・イエス様について正しく知ることが出来る喜び、そして御言葉から勇気を与えられ、時に慰められ、励まされ、時には叱責を受ける・・そのような恵みが与えられる場所、それが父の家=教会です。